2017年 10月 07日
聞思修
シンガポールや台湾に行くと
瞑想中に、何らかの体験がおこることが多いのですが
今回はそういうのはありませんでした。
なんでかな?と考えて、それは
今回は、瞑想(修)ではなく、教え(聞)だったからだと気がつきました。
アミデワ・リトリートは、リンポチェとご一緒に瞑想する体験です。
合間合間に、リンポチェの選ばれたテーマでの teaching が入りますが
ほとんどの時間は、成就法とマントラのお唱えに費やされます。
だから、イッてしまえるんですね(笑)
「マハームードラ」は難しすぎるので、実際の瞑想に入りませんし
「三十七の菩薩行」も、常に「聞」のレベルで学ぶものです。
もちろん、その場にリンポチェが臨在しておられますので、
音声ファイルを聴いたり本で読むだけとは全く異なる体験になるのですが
(幸福感がまったく違います!)
どちらかというと、言葉で学ぶ「知的」な側面が大きいと思います。
思えば2012年のご来日の際は、ほぼ全て teaching でした。
2013年のときは、灌頂に少し成就法が入り
「ジクテン・スムゴンのラマチューパ」の中では
おんあーふーむ瞑想(修)を教えていただいた記憶があります。
でも、あとはほとんど「聞」だったような。
暇満の舟なる人身得たからは
自他を輪廻の海より救うため
昼間も夜も心を散らさずに
聞思修する仏子菩薩行
と、「三十七の菩薩行」の第一偈にありますが
「聞思修」をチベット語で「とー・さむ・ごむぱ」と言います。
5年前にはじめて仏法 teaching を「とー(聞)」し、
その後瞑想を積んできた「ごむ(修)」の体験を、
今回、あらためて teaching をいただいて、
「とー(聞)」のレベルで整理させていただいたように思います。
こうやって、何度も何度も教えを受けては実践し、
また教えをいただいて理解を深める・・・
ということを繰り返していくのですね。
何度もリンポチェから教えをいただいているこの環境こそ、
まさに有暇具足(暇満の舟)の人身です。
なんとありがたいことでしょう。
そして、アドラー心理学だって仏教と同じだな
としみじみ感じるのでありました。
さて、では「聞思修」の「さむ(思)」とは何なのか?
大きなJ先生にお訊きしたところ、
これは「聞」で教わったことをひとりで考えることではなくて
(それは瞑想の「ヴィパッサナ(観)」に含まれるようです)
伝統的には、チベット僧院で行われてきた「問答」などを指すということでした。
仲間と討論するとか話し合うとか、師に質問するとか、
他者との交流の中で「聞」を確かめていくことを「思」とよぶのだそうです。
そうすると~
わが日本ガルチェン協会は、
けっこういい線でプログラムを組んでるんじゃないかしら?
だって、今年3月、ドルズィン・リンポチェからいただいた
三十七の菩薩行が「聞」、
前行・おんあーふーむ瞑想・観音菩薩とターラー菩薩の成就法が「修」。
その後、復習会やおさらい会で、
みんなしっかりと「修」を繰り返していますよね♪
それから、インターネットでやってる「タルゲン勉強会」は
「思」になりますね!
こうじゃないか、とか、ああじゃないか、とか
みんなで智恵を出し合ってディスカッションしているのですから!
来年3月、ドルズィン・リンポチェにお願いしているのは
六波羅蜜の「聞」と
前行・アミデワリトリート・ポワの「修」です。
いい感じ!(^^)v
来週、アドラー心理学会の総会が終われば、
J先生も私も、本業の方が少し落ちつきますので、
そろそろ来年の詳細をお知らせできるのではないかと思います。
もう少しお待ちくださいね~
喧噪や混沌から遠く離れて見ると美しい!
by prem_ayako
| 2017-10-07 21:03
| tibet