アードラーの夢

ayakoadler.exblog.jp

アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。

聞思修

シンガポールや台湾に行くと
瞑想中に、何らかの体験がおこることが多いのですが
今回はそういうのはありませんでした。

なんでかな?と考えて、それは
今回は、瞑想(修)ではなく、教え(聞)だったからだと気がつきました。

アミデワ・リトリートは、リンポチェとご一緒に瞑想する体験です。
合間合間に、リンポチェの選ばれたテーマでの teaching が入りますが
ほとんどの時間は、成就法とマントラのお唱えに費やされます。
だから、イッてしまえるんですね(笑)

「マハームードラ」は難しすぎるので、実際の瞑想に入りませんし
「三十七の菩薩行」も、常に「聞」のレベルで学ぶものです。

もちろん、その場にリンポチェが臨在しておられますので、
音声ファイルを聴いたり本で読むだけとは全く異なる体験になるのですが
(幸福感がまったく違います!)
どちらかというと、言葉で学ぶ「知的」な側面が大きいと思います。


思えば2012年のご来日の際は、ほぼ全て teaching でした。
2013年のときは、灌頂に少し成就法が入り
「ジクテン・スムゴンのラマチューパ」の中では
おんあーふーむ瞑想(修)を教えていただいた記憶があります。
でも、あとはほとんど「聞」だったような。

   暇満の舟なる人身得たからは
   自他を輪廻の海より救うため
   昼間も夜も心を散らさずに
   聞思修する仏子菩薩行

と、「三十七の菩薩行」の第一偈にありますが
「聞思修」をチベット語で「とー・さむ・ごむぱ」と言います。

5年前にはじめて仏法 teaching を「とー(聞)」し、
その後瞑想を積んできた「ごむ(修)」の体験を、
今回、あらためて teaching をいただいて、
「とー(聞)」のレベルで整理させていただいたように思います。

こうやって、何度も何度も教えを受けては実践し、
また教えをいただいて理解を深める・・・
ということを繰り返していくのですね。

何度もリンポチェから教えをいただいているこの環境こそ、
まさに有暇具足(暇満の舟)の人身です。
なんとありがたいことでしょう。

そして、アドラー心理学だって仏教と同じだな
としみじみ感じるのでありました。


さて、では「聞思修」の「さむ(思)」とは何なのか?

大きなJ先生にお訊きしたところ、
これは「聞」で教わったことをひとりで考えることではなくて
(それは瞑想の「ヴィパッサナ(観)」に含まれるようです)

伝統的には、チベット僧院で行われてきた「問答」などを指すということでした。
仲間と討論するとか話し合うとか、師に質問するとか、
他者との交流の中で「聞」を確かめていくことを「思」とよぶのだそうです。


そうすると~
わが日本ガルチェン協会は、
けっこういい線でプログラムを組んでるんじゃないかしら?

だって、今年3月、ドルズィン・リンポチェからいただいた
三十七の菩薩行が「聞」、
前行・おんあーふーむ瞑想・観音菩薩とターラー菩薩の成就法が「修」。

その後、復習会やおさらい会で、
みんなしっかりと「修」を繰り返していますよね♪

それから、インターネットでやってる「タルゲン勉強会」は
「思」になりますね!
こうじゃないか、とか、ああじゃないか、とか
みんなで智恵を出し合ってディスカッションしているのですから!

来年3月、ドルズィン・リンポチェにお願いしているのは
六波羅蜜の「聞」と
前行・アミデワリトリート・ポワの「修」です。
いい感じ!(^^)v

来週、アドラー心理学会の総会が終われば、
J先生も私も、本業の方が少し落ちつきますので、
そろそろ来年の詳細をお知らせできるのではないかと思います。
もう少しお待ちくださいね~

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行きの飛行機の窓から撮った香港島
喧噪や混沌から遠く離れて見ると美しい!






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# by prem_ayako | 2017-10-07 21:03 | tibet | Comments(0)

ティーチング

9月29日(金)の夕方、
尖沙咀の街坊福利会という会場で
ガルチェン・リンポチェによる白ターラー菩薩の灌頂をいただきました。

古い学校の講堂といった趣の会場で、ざっと800人ぐらいでしょうか、
私には中国語の聞き分けができないので分からないのですが、
J先生によると、地元香港の方、台湾からの方以外に
大陸からの中国人が多かったようです。

英語通訳を聴くために受信機をお借りしたのですが、
電波がよく届くようにと、右の最前列に座るように言われました。
ありがたい! リンポチェの間近ですw

といっても、英語通訳を利用していた者はごく少数で
私たち日本人と、ほんの数人の西洋人だけだったように思います。


翌30日(土)も同じ会館の同じ席で
「ガンジス川のマハームードラ」の教えをいただきました。

2012年、2013年と2年連続で
日本でやはり同じ教えをリンポチェからいただきましたが、
チベット文化協会のラマ・ウゲンの日本語通訳があったにも関わらず
・・・なんだか今回英語で聴く方が、まだしも理解できたような気がします。

あの頃は
日本語の仏教用語自体、まだ全く無知でしたからね~
(と遠い目)

あれから私、
self-grasping(我執)だとか altruistic mind(利他心)だとか
普段は絶対使わないような仏教重要語句を
勉強したもんね(^_^)v

ただ今回、この教えを1日(実質4時間)でいただくというのは
いくらなんでも無理ですわ。。。
リンポチェも時計を気にされながらだし、通訳のイナもすごい早口だし
心をからっぽにして聴いていると、
うまくいけば時たま心に意味が届くという感じ(-_-)

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10月1日(日)は会場が変わって
地下鉄(MTR)で30分ほど行ったところにある、ホテルの豪華なお部屋になりました。
リンポチェのお椅子は、ぐっと座り心地の良いものになり
私たちの椅子も、お尻の痛いパイプ椅子からグレードアップしました。

でもね、リンポチェは、固いお椅子に座られているときも、
どんなに柔らかいソファーに座られているときも
同じ姿勢で、淡々とマニ車を回されます。
椅子の背にもたれるなどの楽な姿勢は、決しておとりにならないんです。
どんなに長時間でも、背中をくずさず座られるのだと
ドルズィン・リンポチェも言っておられました。

81歳のお年で、それは、どれほどのご意志の力かと感動しましたので
私も真似しよう!と思ったのですが
すぐに、忘れてしまいます・・・
この意志の弱さよ(>_<)


この日のご法話は、みなさまお馴染みの「三十七の菩薩行」でした。
これは、2012年5月
はじめてリンポチェにお会いした際に、最初にいただいたご法話です。

このお教えがあまりにも素晴らしかったので、これを本気で勉強しようと思い
手の届く範囲で「三十七の菩薩行」を学ぶべく
他のラマのもとへ、大阪、京都、名古屋へと出かけました。
また辞書を引き引き、チベット語原文でも学びました。

あれから5年経って、
根本ラマであるガルチェン・リンポチェから
この同じテキストをこうして香港まで来て教えていただいていると思うと
とても感慨深いものがありました。

少しは身についたのだろうか?と自らに問えば
いえ、未だ未だ!と言うしかありません(>_<)

それでも、特に後半(第22偈あたり)
深い深いところをお教えいただいたと感じています。


しかし、この日のお教えもやっぱり4時間だけだったので
リンポチェはめちゃくちゃ時間を気にされて
最後の方、イナの通訳はあり得ないほどの猛スピード!!
心を無にしても、とてもじゃないけど追いつきませんでした(T_T)

幸い、大きなJ先生が録音しておられたので
後でゆっくりと聞き直します。
でないとあまりにももったいない!


リンポチェのご負担を考えたら、1日4時間は限界だと思います。
実際には、その後に質疑応答やら blessing やら
帰依戒の時間があったりしましたし
ご高齢のお身体には、これでもかなりのご負担だったのではないかと思います・・・

「ガンジス川のマハームードラ」にしても「三十七の菩薩行」にしても、
以前のご法話の英語版が出版されていますので

今後は、教えの本体はそれらの本を参考にして学び、
実際にお会いした折りには、リンポチェのご臨在を随喜する
・・・という形になっていかざるを得ないのかもしれません。


また今回は、リンポチェと個人的にお会いすることは叶いませんでした。
前もって主催者に希望を伝えていたのですが
うまくアレンジできなかったようでしたし、
リンポチェのお疲れのご様子を見て、こちらからキャンセルさせていただきました。
(貪欲はいけませんからね!)

でも、最後の blessing のとき
カタを持って並んだ私たちにリンポチェは気がついてくださって

大きなJ先生に、「おお~ありがとー!」と、すぐに日本語でおっしゃって
おでこをごっつんこ!(^^)
私にも「ありがとー!」とおっしゃりながら
左のほっぺたにちゅっとキスしてくださいました(笑)

うれし~(^o^)
満足。
香港まで行った甲斐がありました♪♪(単純)

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# by prem_ayako | 2017-10-07 20:51 | tibet | Comments(0)

香港

ブログのタイトルに反して、
最近はアドラー心理学についてのお話がほとんど書けていないです・・・スミマセン。

でもね、守秘義務のこともあるし
エピソードがあんまり書けないですからね。
いきおい、自分の体験したことを語るだけになります。

というわけで、またまた旅のお話です(^^;)


今度は香港に行ってきましたよ。
私にとって、はじめての香港 = 中華人民共和国!

例によってガルチェン・リンポチェの追っかけでしたが、
会場は、尖沙咀(Tsim Sha Tsui)という九龍の中心地。
ホテルも会場から徒歩5分の、繁華街の真っただ中でした。

九龍(Kowloon)というと、昔は魔窟のイメージが強かったですけれど、
ガイドブックによると、今はそこそこ安全になってるみたいです。
せっかくだから、1日前に行って香港観光もしました。


関空から3時間で香港国際空港。
空港のあるランタオ島から市街へは、reasonable な路線バスを利用しました。
このバスが2階建て!
迷わず2階に座を占めて(^^)v
香港島の摩天楼をバスの窓から眺めました。

と~っても細くて高い特徴的なビル群は、
どうやら人々の生活しているアパートみたいで
よく見ると窓から物干しが突きだして、洗濯物が干されてます。
日本のタワーマンションが林立している感じでしょうか。

企業のビルは、むしろもう少し低く四角くて
日本でもよくあるような形状のビルが多かったです。

さらに、今なお建設中のビルもありました。
この街は、まだこの上も発展しようとしているのでしょうか。

先日大阪で観たブリューゲルの「バベルの塔」の絵を思い出してしまいました。
そんなに高く高く、上に上に上がって、いったい何がしたいの?
なんて考えてしまって・・・
どうも、この都市に渦巻くエネルギーにチューニングするには
私、少し気合いが足りない感じです(^^;)
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ホテルの近くでバスを降りたとたん
強烈な陽射しと湿気にくらくらっとしました。
いかん!日焼け止めを持ってこなかったわ!
日本はもうだいぶ涼しいので、油断していました。

ともあれホテルに荷物を置いて
ガイドブックを睨みながら裏道を探検し
広大な九龍公園を散策し
ガイドブックに載っている
安くておいしそうな大衆食堂に入って夕飯を食べました。

無難な揚げ焼きそばのあんかけみたいなものを注文しましたが、
おいしいんだけど、途中で食べられなくなっちゃいました。
なんでかな~

翌朝は、また別のお店に出かけて朝食セットを頼み
それなりにおいしく完食したんですけど
やっぱり後でお腹がもたれて、お昼をパス・・・
なんでかな~

残念ながら、香港の食べ物、私にはあまり合わないみたいです(-_-)
シンガポールでも台湾でも全然平気だったんだけど。
たぶん、脂かな。
ひょっとしたら、AJINOMOTO のせいもあるかもしれない・・・

その後は炒め物を避け、
4日間の滞在中、外食はできるだけ
肉まんとか水餃子などの点心を選びました。

それから、身体が果物をとても欲しがる感じだったで
見つけた果物屋さんで、すももやぶどうやバナナを買い込み、
ホテル近くの高級スーパーで、チーズやパンやショートブレッドなどを買い込み
幸せな朝食をホテルのお部屋で食べました。
そうしたらお腹の調子もすっかり良くなりました(^^)v


また、香港島と向かい合う港の方にも出かけてみました。
さすがに海の近くは、風があって快適です。
夜はまたさらに絶景でしょうね~
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やっぱり香港に来たからには、と
ブランドショップの立ち並ぶ廣東道(Canton Road)にも行きました。
もちろん通りすぎただけ・・・ですが
Loui Viton にちょこっと入ってみたりして(笑)
値段を見る勇気もありませんでしたけど~

さらに、翡翠市なんてのに紛れ込んで
あらゆる種類の翡翠の原石、装飾品が山盛りになっている店店を
呼び込みをかわしつつ眺め歩きました。
・・・が、やっぱり何も買わずじまいでした。

大きなJ先生が、来年のドルズィン・リンポチェのご来日までに
ぜひ金剛薩たのタンカを買いたいものだとおっしゃるので
チベット仏具を扱うお店も探し歩きました。
素晴らしい品揃えのお店を見つけて、
いろいろ見せていただきましたが、良いお品ばかり!
ちょっと良いお品すぎて・・・
これも今回は見送りました。


というわけで、欲望全開の都、香港で
よい子は禁欲的に身を律し、
物欲に負けることが決してなかったのでした~

めでたし、めでたし。
 
 
 
 
 
 

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# by prem_ayako | 2017-10-07 20:44 | travel | Comments(0)
ラムケン・ギャルポ・リンポチェというお方のことを
私は勝手に「おひげリンポチェ」とお呼びしています。

数年前まで、わりとひんぱんに日本においでになっておられたようで
私は2013年初夏に東京の護国寺で般若心経を


2014年冬に、やはり東京の慈母会館でチュゥの教えを受けました。


どちらも、とてもとても尊いものでした。


おひげリンポチェにお会いする前の年に、はじめてガルチェン・リンポチェにお会いして
そのとき、ガルチェン・リンポチェの弟子になろうと決めたのですが
次いつお会いできるかわからなかったので

翌年6月、同じディクン・カギュの高僧であるおひげリンポチェから
最初の帰依戒をいただいたのです。

今もよく覚えています。
風の吹き抜ける護国寺の本堂で
おひげリンポチェの明快なご説明を伺ったこと。
質問への的確なお答えと
詠まれたチベット語の般若心経の美しさ。。。


帰依戒を受ける人は前に出るようにと言われ
リンポチェのすぐ前に左膝をついて手を合わせた私をご覧になって、
「彼女のような姿勢で座ってください」とおっしゃいました。
(なんとそのときの通訳さんは、先日大津で1日だけ通訳に来てくださったM先生でした)



2014年の慈母会館でのチューのお教えも素晴らしかったです。
おひげリンポチェはダマルを鳴らしながら
とてもよいお声でお経を唱えてくださいました。

ただ、最終日の午後から突然に
お風邪のような症状が出てこられて、声が涸れ
少し熱っぽいお顔になられて、お気の毒でした。
最後のチューの朗唱は、お付きのケンポに任せておられました。



このケンポとは、その後Facebookでお知り合いになったのですが、
その頃はおひげリンポチェとご一緒にヨーロッパやロシアを回っておられましたが、
そのうち、おひとりで写るお写真が多くなってきました。

そして少し前、おひげリンポチェのお写真が、ひさしぶりにアップされていました。
それを拝見すると・・・・・とても痩せておられて

あの丸顔とキラキラしたお目が・・・様変わりしておられて
前は黒々としていたおひげも、目立たなくなっておられて
・・・お年を召しただけではない変わられようだと感じて
とても悲しかったのです。

ですから、予感はありました。


今朝ほど、アメリカのガルチェン・インスティチュートからメールが届いていました。


Dear Sangha

H.E. Garchen Rinpoche has requested that his disciples around the world recite White Tara mantras as much as possible for all the beings who are suffering from the natural disasters now - the earthquakes in Mexico, the hurricanes in the Caribbean Islands, Puerto Rico and Florida and anywhere else in the world that is experiencing a natural disaster.

Rinpoche also is requesting his disciples to recite White Tara mantras for the long life and health of one of his teachers, who is very ill at this time - Lamchen Gyalpo Rinpoche.


OM TARE TUTTARE TURE MAMA AYUR JNANA
PUNYE PUSTIM KURU SVAHA


ガルチェン・リンポチェは世界中の弟子たちに、できるだけたくさんの白ターラー・マントラを、いま自然災害にあって苦しんでいるすべての衆生のために唱えるように言っておられます。メキシコの地震、カリブ諸島・プエルトリコ・フロリダのハリケーン災害、その他の自然災害にあった衆生のために。

さらに、リンポチェの師のおひとりであり、今とても重い病にあるラムケン・ギャルポ・リンポチェの長寿と健康のために。

おん たれ とぅったれ とぅれまま あゆ じゃな
ぷんね ぷてぃむ くる そーは

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  ほんとうに無常を感じます。
  父も師も去っていきます。
  おひげリンポチェが少しでもお楽になられますように。

 
 
 
 
 
 


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# by prem_ayako | 2017-09-21 22:48 | tibet | Comments(0)

About My Father

シンガポールに持って行く荷物の中に
忘れず納めたのは、父の写真です。

死者供養の際に、父の名前といっしょに燃やしていただこうかなと思って
遺影に使ったファイルをL判の印画紙に印刷して、
裏に父の戒名と生年月日・亡くなった日を記して持って行きました。

b0253075_22431678.jpgシンガポールに着いた最初の日、
ガルチェン・リンポチェにカタを献げるとき、
通訳のW先生にお願いして、ちょっとそばに来ていただきました。

そして私の番になったとき、通訳してもらって次のように言いました。
「この6月10日に父が亡くなりました。
 これが父の写真です。
 死者供養をするつもりなんですが、
 父の顔を、ひと目リンポチェに見ていただきたくて・・・」

リンポチェは父の写真を手にとってご覧になると
「亡くなっても心にいるので、
 いつもいっしょじゃよ」
とおっしゃいました。

私が自分の耳で聞き取れたのは
リンポチェがご自身の胸を叩いて
「セム」とおっしゃったところだけです。

でもそれだけでじゅうぶんでした。
胸がいっぱいになりました・・・
ちょっとの間リンポチェのお手に触れたまま、ものが言えませんでした。

リンポチェが手にとってくださった父のこの写真は、
燃やさずにとっておこうと思います。


後で、この時のお言葉を何度も思い返すのです。

以前、大きなJ先生のお母さまが亡くなられ、直後にシンガポールへ行った年、
ガルチェン・リンポチェはお母さまの写真をご覧になって
「リトリートの中で死者供養をするから、そこに出しなさい。
 祈れば必ずデワチェンに行けるであろう」とおっしゃいました。
なので私はなんとなく、このたびも同じお言葉をいただくものだと思っていました。

でもそうじゃなかった。。。
父は私の心の中にいつもいる・・・
というお言葉をいただいたのでした。


・・・リンポチェは、相手への慈悲からお言葉をくださいます。
私の父への思いを見て取られて
こう言ってくださったのではないでしょうか。


アミデワ・リトリートの期間中、
主に心の中でいろんなことが起こりますが
このできごとを反芻しながら「おんあみでわふりー」を唱えていると
あるとき、畏れ多いことですが、父とガルチェン・リンポチェが重なりました。


思えば私のリンポチェへの愛着は、
子どもが父親に対してもつ愛着に似ています。

私にとって父は、やさしくて絶対的な存在。
疑いなく私を愛してくれる人でした。
あまり側にいられないけれど、できるだけ側にいたい人。

そして高齢となった父は
壊れやすく、なんとしても労りたい。
その人生を、できるだけ苦少なくまっとうしてもらいたい。
尊敬と感謝と慈しみとが入り混ざった
なんともいえず愛しい存在でした。

ガルチェン・リンポチェもそう遠くない未来に、涅槃に入られます。
この方も、私の前から去っていかれます。。。

そうか・・・いつも心の中にいるのは父だけではありません。
リンポチェは、ご自身が肉体を離れられても
わしはそれぞれの心の中にいる
いつもいっしょじゃぞ
(悲しむことはないんじゃぞ)
と教えてくださったのかもしれません。


心は鏡のようなものである、と
初日のご法話でおっしゃっていたような気がします。
穢れた心でいるならば世界は穢れて映るし
浄い心でいるなら世界は美しく映る・・・というような。

すべてが心であるならば
父も・・・すべての死にゆく者たちも
いっしょにいるのだという物語を映すこともできますし、

いや(デワチェンに行ったのだから)いっしょにいない
という物語を採用することもできるでしょう。

リンポチェは私の心の耐性に合わせて
慈悲の物語を与えてくださったのだと思いました。
(T_T)


おんまにぺめふむ
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# by prem_ayako | 2017-09-09 22:50 | Comments(0)

The 1st Day in Singapore

(すっかり季節が変わり、古い話になってしまったんですけど・・・
 よろしければお読みください)

8月8日の朝8時に函館から帰宅して
その日の夜8時には関空におりました。

朝ご飯を食べて、1週間の旅の用意をして
ざっと掃除機かけて、お風呂入って昼寝して、
メールチェックしてブログアップして、ゴミを出してダッシュです。
できるもんですね(^^;)


シンガポールは4回目です。
最初の2回はJ先生とふたりきり。
昨年は約10人、
今年は約20人の日本の仲間と参加することになりました。
関空から、通訳のW先生といっしょです。

9日早朝、お馴染みのチャンギ空港に無事到着し、
時間をつぶして午前8時すぎ、
ダルゲーリン(ドルズィン・リンポチェのお寺)に向かいました。

今年のシンガポールは例年ほどには暑くなく、
2晩連続で夜行移動の私としては、たいへん助かりました。

ダルゲーリンでタクシーを降りると
成田からの到着組が、鍵がかかっているとビルの外で待っていました。
8時に開けると聞いてたのにね・・・と、ドアの小窓から覗いてみると
お坊さんがふたり、祭壇を調えておられるのが、かろうじて見えました。

ピンポンを押しても反応がないので
何度かノックしてみると、ようやく気づいてくださいました。
そうして扉を開けたお坊さんは
5年前から、毎度ここでお会いしているラマ・ツェリン
あちらも「おお!」とニッコリされ、大きく扉を開けてくださいました。

続々中に入ると、奥からドルズィン・リンポチェがご登場!
(リンポチェとお坊さん方は、ここに住んでおられるんですね)
みんなハグして感動の再会です(^o^)

そのうちにスタッフの方々もやって来られました。
ガルチェン・リンポチェのお座をつくって、私たちの座布も並びました。
どうやら・・・今回はいつもの奥の部屋ではなく
仏像やタンカの並んだ本堂でお会いできるようです(やっぱり20人で来ると違うわ!)

通訳のW先生を含む日本人の半数以上は、
3月のドルズィン・リンポチェのリトリートに来られた方々で
ガルチェン・リンポチェとお会いするのは、このたび初めてです。

お約束の9時近く、いったん座っていた座から
そうだICレコーダーを出しておこう、と荷物の方へ歩いて行ったとき、
ちょうど!ガルチェン・リンポチェが入ってこられるのに出くわししました。
さっそくみんなに告げて、立って合掌してお迎えしました。
(そしてICレコーダーのことはすっかり失念いたしまして・・・
 今回も録音し損ねましたとさ・・・)

ガルチェン・リンポチェはニコニコと、とてもお元気そうです♪
いつものように慈愛深く
みんなの顔を見回してくださいます。
この笑顔にあえば、私たちも笑顔にならないではおれません。

b0253075_22222612.jpg大きなJ先生が日本ガルチェン協会の会長として
3月のリトリートが大成功に終わったことや
今後の計画や、
リンポチェへのお願いなどを伝えられました。

ガルチェン・リンポチェは
通訳のW先生が楽な姿勢でお仕事できるように
気を配られます。
こういうところ、本当にガルチェン・リンポチェらしい!
ご自分のことより、いつもまわりの衆生のことを考えてくださいます。

今までは15分ぐらいしかお時間をいただけなかったのに、
今回はなんと1時間(!)
日本人のために、リンポチェはお時間を割いてお話をしてくださいました!
(やっぱ20人いると違うわ again)
そして今回も、録音できなかったことが悔やまれる again です。

でも、あとで大きなJ先生にお尋ねしたところ、
次のように概要を教えてくださいました・・・

 このように私(Jalsha)は聴いた。
 輪廻も涅槃も全て私たちの心(セム)である。
 心が穢れていると(我執があると)輪廻になり、心が清まると涅槃になる。
 智恵と慈悲によって心は清まる。
 一生懸命勉強して智恵ばかりを増やしてもダメで、
 日常生活の中で慈悲を磨かなくてはならない。
 菩提心の瞑想(ゴム)をすることが必要じゃ。
 そうすると心がしだいに清まって、やがて智恵も生じる。
 こうして心が完全に我執から離れると仏になるのじゃ、と。

私のいいかげんな記憶では
「セム(心)」で始まって「ゴム(瞑想)」で終わるんだな・・・って程度でしたので(>_<)
J先生に感謝感謝です!


ありがたいご法話の後、
思ってもいないことが起こりました。
ドルズィン・リンポチェが目配せされて、
大きな布の巻物が、ガルチェン・リンポチェの前のテーブルに置かれました。
それを、私たち日本のサンガにくださるというのです!
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開いて見せてくださったものは、
ディクン・カギュ派の創始者であるジクテン・スムゴン大師のお姿を中心に
系譜のラマたち、ご本尊、まわりにはウサギや象が戯れる、
とても美しいタンカでした。
(今年はジクテン・スムゴン大師の入涅槃800年記念の年なのです)
絵そのものも大きいですが、軸装もたいへん立派です。

台湾ではお釈迦さまのお像をいただきましたが、
今回はタンカですか!
ありがたすぎます(T_T)

それからひとりひとり、ガルチェン・リンポチェにカタをお献げして
記念写真を撮って、ちょうど1時間でガルチェン・リンポチェは退出されました。
b0253075_22282617.jpg
このようなご厚遇、すべてアレンジしてくださったのは、
われらがドルズィン・リンポチェです~(T_T)


面白いことに、
この後4日間のアミデワ・リトリートの間も
日本の参加者の間でドルズィン・リンポチェの株は上がりっぱなしでした(^^)

3月のリトリートでドルズィン・リンポチェの帰依戒を受けられた方々はやはり、
ドルズィン・リンポチェlove!みたいです。
私はやっぱりドルズィン・リンポチェはお兄ちゃんみたいな感じで
ガルチェン・リンポチェの方に、隙あらばベタベタしちゃうんですけどね(笑)

 
 
 
 
 
 
 
 
 


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# by prem_ayako | 2017-09-09 22:35 | tibet | Comments(0)

函館4(車中泊)

東北新幹線で海を渡るのは初めてです。
まさかこんな緊急事態で乗るとはね。。。

実は、以前にも北海道では緊急事態にあったことがあるんです。
あの時はやむをえなく、生まれて初めての飛行機に乗りました。

今を去ること○十年前、
私が大学生、二十歳ぐらいのときです。
3週間ほどのはじめての北海道旅行の帰り、
記録的な大雨で、ほぼ全道の鉄道が土砂崩れなどで運休になってしまったことがありました。
私は礼文島からの帰りで
電車で札幌に出ようとしていたら、旭川で止まってしまいました。
しかたなく旭川で1泊して
翌朝、駅に行くも、どの線もほぼ運休中。
唯一動いていた富良野線に賭けで乗ってみたら、
やっぱり途中で停止してしまいました。

富良野駅でたむろしていた旅行客らと乗り合わせて
タクシーで豪雨の中、苫小牧に出ました。
決死の日高山脈越えでした(^^;)

苫小牧でさらにまた1泊。
翌日ようやく動き始めたJRで千歳に出て、
生まれて初めて乗る飛行機で伊丹まで帰ったのです。。。

○十年たって、
今度は飛行機が止まって電車で移動かぁ。。。
あの時の借りを返す感じかな?(^_^;)


さて、16時台の東京行きは立ち席しかなかったので、
17:21発のはやぶさ34号の指定席をとりました。
東京駅に着くのは21:23です。
けっきょく飛行機と同じぐらい遅くなりますが、
羽田に夜に着いてうろうろするより、東京駅の方が私にしたらずいぶんましです。
なんせ土地勘がありませんし、方向感覚もありませんからねぇ。

i phoneの充電は、新幹線に乗ったら問題解決しましたので、
大きなJ先生に連絡をとりました。
先生も外来診療のお仕事中でしたが
やっぱり台風の影響で患者さんが少なかったみたいです。
先生が東京八重洲口発の夜行バスをうまくゲットしてくださいました!
頼りになりますぅ~!ありがたい!!

パスワードをお訊きして
青函トンネルを抜けたあたりでチケット画面を開くことができて
ほっと一安心。

あとはバスの運行状況ですが
台風は現在まさに琵琶湖あたりにいて、そのあと北上するらしいので
夜中に東京から京都に向かうルートは
あんがい大丈夫かもしれません。
うまくいけば台風をかいくぐって帰れるはず、と踏みました。
(実際、中央自動車道を通る夜行バスは運休になっていましたが
 東京から京都、大阪方面の夜行バスは、問題なく動いていました)

東北新幹線は遅れもなく、東京駅に着き、
八重洲バスセンターに直行すると、旅行客でごった返していました。
待合室になんとか座れる場所を確保し、
朝、函館で買ったいちじくとくるみのパンを夕食としてかじりながら
23時の出発を待ちました。

あとはバスに乗り込んで寝るだけです。
でも夜通し、窓の外はびゅうびゅうと、ものすごい風の音でした。
バスの運転手さん、がんばって運転してくださいませ!

でも京都に着く頃には風の音も弱くなり、
数日ぶりにセミの声を聴いた気がしました。
午前7時半、無事JR京都駅前に到着し、8時には自宅に帰り着きました。

不思議といつもの朝のように
8時の朝食に間に合ったのです。
いつもどおりの朝食を、J先生が用意していて待っていてくださいました。
うれしいことです。



ではこれから、今度はシンガポールに向けて旅立ちます。

ガルチェン・リンポチェ、
ドルズィン・リンポチェに、
もうすぐお会いできます~♪


ひとまず終わり

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# by prem_ayako | 2017-08-08 14:23 | Comments(0)

函館3(翌日)

翌7日は
13時45分函館発の伊丹行き飛行機を予約していました。
Mちゃんもお仕事ですし、送迎は不要と伝えていたのですが

朝8時半にS美さんから電話がはいり、
そっちの方にいく用事ががあるからって
ホテルまで来てくださったんです。

うれぴー

10時ごろから、「はこだて工芸舎」というすてきなお店に連れてっていただきました。
すてきな陶器やガラスの器がいっぱい♪
すてきなスカーフやお洋服がいっぱい♪
すてきな置物や小物がいっぱい♪
でも、どれもお高~い(汗)
S美さんたら、ほんとに目が肥えておられますw

というわけで、あれこれ見せていただいたけど
私が買ったのは絵はがきだけです(笑)
S美さんは誘惑にあらがいきれず、
「はるまち館」に飾るのにぴったりの布の小物を買っておられました。

b0253075_14075764.jpg「はこだて工芸舎」は築80年の旧・梅津商店の建物の1階で、
2階は古い時代の事務所をそのまま保存してありました。
そちらも上がって見学させていただきました。

b0253075_14094907.jpg

 

 美しいですよねぇ。
 古い港町って大好きです。






それからお蕎麦屋さん方面に移動して
少し歩いたり、パン屋さんをのぞいたりしてから
適当な時間に空港まで送っていただきました。


ところで、
みなさんがこの記事を読まれるころにはもう過去のことになっているでしょうが
この日、8月7日は
台風が四国から和歌山に上陸し
日本列島を直撃した日だったのです。

とはいってもまだこのとき、函館は少し曇ってはいるもののいたって平穏。
空港の電光掲示板を確認してわが目を疑いました。
13:45発大阪行きJALが「欠航」になっていたのです。

飛行機遅れとか、目的地変更とか
はたまたJR運行停止とか
いろいろ経験してきましたが
自分の乗る飛行機が欠航とは、はじめてデス
・・・・・

もう1泊こちらでしたらいいじゃないですかぁ
と言っておられたS美さんも、
私が翌8日の夜の飛行機でシンガポールに発つことを言うと、ちょっと真っ青。


間に合うのか??
いや、間に合うだろうけど・・・

気を取り直して、「JALのカウンターに行きましょう」と言って下さったので
カウンターで最も早くに帰れる方法を相談しました。

不要になってしまったチケットのままで
函館発最終の19:35の飛行機で羽田に21時に着き
明朝7:15の羽田発関空行きの飛行機に変更できるということでした。
・・・でもこれだと、東京の宿を探さなくてはなりません。

しかも私、函館のお仕事が先決だったので、シンガポール行きの荷造りができていないのです。
関空に朝8時半について大津まで帰って荷造りし、
また夜に関空に戻ってくるなんて
ばからしくない?
しかも夜のあいだの時間が無駄だ!
と私は思ったのです。

東京まで行けばなんとかなるんじゃないかな?
夜行バスで京都まで帰る手もあります。

そう考えると、羽田に着く飛行機だとかえって不便のように思えてきました。
新幹線で東京にでれば、移動なしに八重洲口からバスに乗れるのですから。

S美さんがそばにいてくださってホントに良かったです~
あれこれ相談にのってくださいました。
そして落ち着けるおいしいケーキと紅茶のお店に連れてってくださって
そこで彼女はご自分の事務仕事をし、
私はスマホで高速バスを検索しました。

便はいろいろあるし、席もいくつか残っているようなんだけど
会員登録、ログインが、なかなかうまくできなくて
何度やってもエラーがでます。
そのうちに携帯の電池が少なくなってきました!

かなり粘ったんですけど、3時頃、もうきっぱりあきらめて
顔を上げてS美さんに「決めました!」と言いました。
「決めました? どうします?」
「新幹線で東京にでて、予約なしでその場でバスを探します。なんとかなるでしょう」
「じゃ新幹線ですね。駅へお送りしましょう」
「函館駅ですか?」
「笑 いえ、北斗駅です」

あら~S美さんがいてくださってホント良かったわ。
私、新幹線は函館駅からでるって思いこんでいました~
ちがうかったのね。

「新函館北斗駅です。函館よりも七飯に近いあたりですよ。名前は函館ってついてますけどね」

最後までお世話になりましたm(_ _)m
新函館北斗駅まで送っていただいて
あわただしくもなごりおしく、S美さんとお別れしました。

さて、私は無事におうちに帰れるのでしょうか?



つづく


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# by prem_ayako | 2017-08-08 14:14 | Comments(0)

函館2(当日)

b0253075_23261626.jpg
翌8月6日午前は
なんと!私生まれてはじめての
「講演会」をやってしまったのでございます。

もともと、午後3時間のワークをしてもらえないかという話をいただき、
ワークの経験だってめちゃ少ないですけれど
「エピソード分析」をお伝えするようなものならとお引き受けしたのです。

そうしたら、せっかくだから午前も何かお話してくださいよ、と言われ
いや無理ですよ、講演なんて組み立てたことないし!などのやりとりの末、

S美さんにも前に出ていただいてあれこれお喋りする感じならできるかなって
「対談形式での講演会」が実現してしまったのです。

ほんと、わがままな講師で申し訳ないことでしたが
(私、あくまで、ひとりで前でしゃべるの苦手)
けっこうウケがよかったみたいでした・・・。

対話形式だから間合いがちょうどいい感じで
とてもわかりやすかったと言っていただけました。
S美さんがうまく質問を組み立ててくださっていたので
私としては準備も楽でしたし
もちろん、S美さんとのお喋りがとても楽しかったです。
予定にはなかったところでS美さんに話をふっても、
ノリで返してくださいましたしね!

感動したのが、スタッフのみなさんが持ち寄ってくださったお花の数々です。
あじさい、りんどう、その他の繊細な花々・・・
どれもみなさんのお庭に咲いている北国の花の枝を
切って持ってきてくださったのです~
それがまとめるとバケツにいっぱい!
講演している前にかざっていただきました。
売っているお花じゃなくて自然のままなのが
なんだかとてもうれしかったです。

お昼は、スタッフのみなさん持ち寄りのお弁当でパーティーです♪
たくさんおいしいものが並んでて、すっかり甘えていただきました♪


午前でほぼ燃え尽きちゃったんですけど(笑)
午後が肝心のワーク、「エピソード分析を学ぶ」です。

参加者の中には「パセージ」を受講していない方もおられたので、
まず「エピソード」と「レポート」の違いから話を始める必要がありました。
「私的感覚」を出すところまでいくのはむずかしいと思いましたので
「パセージプラス」第1章までの範囲でワークを組み立てました。

「エピソード分析双六」っていうシートを作って(笑)(要するにアルゴリズムです)
「ふりだし」=「エピソードを聴く」から
「あがり」=「お願い口調の練習」まで
仮想的目標をみつけることと、
パセージから代替案を工夫することを、目ざしました。

「エピソード分析双六」の手順にそって私がデモをやって見ていただき、
次に参加者同士のグループで、同じことをやっていただきました。

デモに出てくださったクライエントさんが
また、聡明な勘のよい方でして(ありがたい!)
ご自分の言葉で代替案を考えてくださいました。

ワークも、「仮想的目標」をみつける頃から各グループ賑やかになってきて
笑い声が響き、時間内に代替案のロールプレイを終え、
「あがり」までいって完了していただくことができました。
みなさんすてきな代替案を工夫してくださいました♪

最後に各グループのエピソード分析を発表していただいて学びを共有し、
少し質問の時間をとって終わりました。


「パセージプラス」受けてみたい!っていうモーティベーションを
上げることもできたみたいです~
良かった~~

b0253075_23225359.jpg

つづく

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# by prem_ayako | 2017-08-08 14:05 | Comments(0)

函館1(前日)

ご縁あって、函館でお仕事をさせていただきました。
朝から夕方までまる1日のお仕事だったのですが
まあなんといいますか
函館堪能しましたよ。

大阪伊丹からの直行便は昼間に一本しかないので
前泊・後泊したんですけどね。
おまけにその上、もう一泊、
車中泊というのも加わりました。

前泊はスムーズに。
いや今考えたらこの時も・・・
荷物の積み込みに時間がかかって離陸が遅れ、
現地お世話役のMちゃんをお待たせしたのでした。
このときから、交通機関にミソがついていたのかもなぁ。。。

まあそんなことは小さなことで
函館空港にお迎えにきてくれたMちゃんに
まず十字街のフレッシュチーズのお店に連れてってもらって
とろりと焼きたてチーズの軽食をいただきました。

それから函館七飯アドラー心理学研究会のHさんのもとへ。

Hさんとは、15年も前のカウンセラー養成講座で同期だったんですよね~
しかもHさんS美さんご夫婦の娘さんは、うちの娘と仲良しだったりしまして
いろいろとなんだかご縁が深いのでありました。

Hさんのクリニック前の林で、居合わせた子どもたちとちょこっと遊んだり
菜園の野菜を、明日のお弁当用に収穫するのを眺めたり、
そのあとはHさん・S美さんと明日の打ち合わせ。
それからクリニックの見学をさせていただいて、
しかもラッキーなことに、
できたばかりの「はるまち館」の内部を特別に見せていただいたのです。

これがこの日のハイライトでした!
「はるまち館」がすごい!
食にこだわったお弁当を作ったり
お料理教室を開いたり
デイルームがあったり
お泊まりもできたりの
とても多目的な建物なのですが

あたたかみのある総天然木の床!
大型薪ストーブ!
本格ステンレス厨房!
ドアノブや照明器具のセンスのよいこと!
また、窓の外の緑の美しいこと~
屋根裏には秘密の部屋もあり・・・

贅沢な贅沢な空間です。
少年の心を未だ失なっていないようなHさんと
目のめちゃくちゃ肥えてるS美さんとの
夢のコラボの実現~という感じでした(意味不明?)

ともかく、きゃーすてき
目の保養になるわ~!
と大興奮したのでした。
よいものはよいですねえ~

b0253075_14010412.jpg

夜は、ホテルの前の坂を少し上ったところにある
おいしいお蕎麦屋さんにMちゃんが連れてってくれました。

たたずまいがすてき。
お蕎麦も細目でおいしい。
揚げたての野菜天ぷらがまた絶品!
バジル・ズッキーニ・プチトマトの天ぷらをいただき
初日からすばらしい旅の幕開けでございました。

といっても、楽しんでばかりはおれません。
ホテルに帰ってから、明日の手順を見直し
めずらしく上等のクリームでお肌を整えて(笑)
明日の本番に備えて寝たのでありました。

つづく

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# by prem_ayako | 2017-08-08 14:01 | Comments(0)

鴨居の上から

母は、父が亡くなった直後は
死に目に会えなかったことをずっと悔いて泣いていましたが、
孫たちに囲まれて
お通夜の晩とお葬式の日の昼、いっしょに食事をするうちに
だんだんと笑顔が増えてきました。

死者との別れに
こういう時間は、ほんとうに大切ですね。

87歳の母をいたわらなくてはならないということは
言葉に出さずともみんな合意していましたので

母の言うことが少々変であっても誰も否定せず、
黙ってうんうんと聞いておりました。

そうしていると母の話は際限なく脈略なく続くのですが、
後悔や不安の話が出尽くすと
どんなに父がよい夫だったかというプラス面の話になり、
それが何巡もしてまた出尽くすと
ようやく周囲の人々の方に目が向いて
自分以外のあれこれに関心を示すようになりました。


結局、母はさびしかったのかもしれません。
父が老いて
母の尊敬する賢い父でなくなり
母のお喋りを楽しく聴く父でなくなり
母をいたわる優しい父でなくなってしまったから。

母のお喋りを聞いてあげる人が必要だったのですね。。。

今こうやって少し距離をおいて母を眺めると
私はこの小さな老女に
彼女の能力を超えたことを求めていたのだと分かります。

私は未だに母に幻想を抱き
現実以上の母を求めていたようです。
親離れ、出来ていなかった、ということかもしれません。
申しわけなかったです。


神戸市の斎場は、
住吉川上流の山の中腹にあり、
葬儀会館から斎場への送迎バスで
私は母の隣に座っていました。

とりとめもない母の話は問わず語りに続き
なんと、母の早期回想にまで至りました。


小さいころ私ジフテリアか何かで死にかけたことがあったのね
みんながまわりで久子ちゃん久子ちゃんて名前を呼ぶのを
古い家だからお座敷の上に鴨居があるでしょう
あの高いところに私ちょこんとすわってね
みんなが布団のまわりにいるのを上から見ていたの
みんなが久子ちゃん久子ちゃん言うてるのをね
そしたら急にどんっ!と下に
引っぱられたか落ちたかそんな感じがしてね
気がついたら布団の上にもどってたの

私「え~っそれって臨死体験やん」

そうなの
それでぜんぶ見えてたの
お手伝いさんが洗面器にお水を運んできてね
それを私の寝かされてるお布団のすそに
ちょこっとこぼして濡らしたのよ
私それもよくよく見てたから
あんたあそこにお水こぼしたでしょって後で言ったのも覚えてる

「そうか~名前呼んでもらったから生き返ったんやねぇ」

そうよ
あんた、あの時おとうさま呼んでくれた?!

「ああ、呼んだよ。看護師さんも一緒に呼んでくれてたよ」

母を安心させるため咄嗟にウソをつきましたが
本当は、最期のときは呼びませんでした。
小さな子どもが死にそうなら誰もが呼び戻そうとするでしょうが
高齢で病気の父を呼び戻してどうなるというのでしょう。
もう身体は役目を終えたがっているのに。


でも、お葬式が終わり
日常の生活にもどってしばらく経ったある日、
いきなり思い出しました。

父の亡くなったあの日、
11時半ごろに一瞬、父の呼吸が止まったような気がしたとき
私は父の名を呼んで引きとめたのではなかったか?

あのとき私は本能的に
父に生きていてほしいと願いました。
引きとめることがどういうことかなんて考えずに
ただ、私の愛着から父の名を呼んだのです。

父は
ひょっとしたら病室の天井か
カーテンレールの上あたりに座っていたものを
私の願いに応えて
どんっと戻ってきて
もう少しだけ一緒にいてくれたのかもしれません。

あるいは、私がウトウトしている間に逝ってしまっては
かわいそうだと考えて
鴨居の上から呼びかけてくれたのかもしれません。
「ほら目を覚ませよ
 でないとこのままいっちゃうで」って。

そうして、最期の時間を私に与えて
しんどい呼吸をもう少し続けてくれて
思い残すことがないようにしてくれた。

だから「ありがとう」を聞いて
もう逝っていいって思ったんだね。

最期までやさしい父でした。

b0253075_21291932.jpg

b0253075_21470599.jpg

上の写真は今年のお正月、息子の結婚式の写真を見ている両親です。
下は昨年10月92歳のお誕生日に、お祝いに行って撮りました。
どちらも父がお世話になった施設の一室です。
ほんとうによくしていただきました。
たくさんの方に助けていただいて父は天寿を全うしたと思います。
みなさま、読んでくださってどうもありがとうございました。





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# by prem_ayako | 2017-06-23 21:56 | family | Comments(2)

枕経

葬儀社の方が病院にお迎えに来られたのが10日の午後4時。
この日は友引だったので、
お通夜は11日の日曜日
お葬式は12日の月曜日ということになりました。


日曜は午後の納棺までに神戸に行けばよかったので
朝ゆっくりと自宅で金剛さったの浄化法を行いました。
自分自身をきれいにして父を送りたかったのです。
百字真言を108回唱えると、さすがに少しはきれいになった気がしました。

私は昨年ポワを教わったので
死にゆく人のためにポワを行じるやり方も習っています。
私の行で父を極楽に送ることができれば、本当はいちばん良いのですが・・・
とても、まだそんな力はありません。
父の魂を極楽浄土へという件に関しては
この夏ガルチェン・リンポチェにお会いして、そこでお願いするのが確実と思います。

では私は父のために何ができるか?というと
やはりマニ廻向ではないかな?と思いました。
父には、ターラー菩薩より観音菩薩の方が似合っている気がするのです。

浄土真宗大谷派のお坊さまとはまた別に
私個人で父に詠み聞かせる枕教として
ドルズィン・リンポチェから教わった『観音菩薩成就法』のテキストを持ちました。
そして1泊する用意をして、また神戸に向かいました。

b0253075_09583642.jpg
納棺のとき、
ガルチェン・リンポチェの法会でいただいた
お加持つきの赤いお札と
赤い小さな『極楽誓願』の本とを
父の胸元にすべりこませました。

こうして父とリンポチェとのご縁を結んでおけば、
必ず助けになるはずです。


来生も父は人間に生まれて、再びお医者さんになって
また衆生を助ける仕事に勤しむような気がしますが
そのときにきっと、
次の代のガルチェン・リンポチェにお会いすることができるでしょう!


b0253075_21240018.jpg娘は、子ども2人を旦那さんにあずけて
鳥取から駆けつけてくれました。
(今夜は娘と私とで夜とぎです)
息子もお嫁さんと一緒に、都合をつけて来てくれました。
父も喜んでくれたと思いますし、
私もどれだけ心強かったか!


母と兄一家と息子夫婦がそれぞれの家に帰った後、
夜11時、ひんやりした会場で、
私ひとりで父とまた向き合いました。

父の顔は蝋細工のようで、
もはや知らない人のように見えます。
魂はもう肉体を離れているのですものね。
でもきっと、まだそのあたりに居るにちがいありません。

チベット語のお経を詠んでも父に分からないのは分かっていますけど
言葉には魔力があると思います。
私にとっては、和訳されたお経よりも
チベット語のお経の方が、力があるように感じるのです。
いつものようにドルズィン・リンポチェのメロディーで
ゆっくりと心をこめて歌いました。

唱えながらときどき父の遺影に目をやると
うれしそうに私の歌を聴いているようでした。
「ほうほう、きれいな曲だな」と
おもしろそうにちょっと口元をゆるめているようにも見えました。

最初は部屋のひんやり感が気になっていましたけれど
だんだん調子が出てきて声が通り、
部屋の中にいるものたちが鎮まっていく気配を感じました。

父に聞かせるため
また、その部屋に漂うすべての有情に聞かせるため
観音菩薩成就法を行じながら
「おんまにぺめふん」をお数珠五巡り
「おんあみでわふりー」をお数珠二巡り
「これでよし」と感じるまで行いました。

私にできる限りのことをして
しっかりとお別れができました。

最後に父とこのような時間を持てて、私は幸せな娘です。

 
 

 
 
 
 


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# by prem_ayako | 2017-06-23 21:42 | family | Comments(0)

みとり

b0253075_21184308.jpg
ちょうど2週間前、父が亡くなりました。

6月9日はチベット暦4月(サカダワ=聖なる月)の満月で
父が息を引きとったのは翌10日の昼過ぎ。
ほぼ干潮の時刻でした。

早朝、兄から連絡があり
すぐに仕度して神戸に向かいました。
(大きなJ先生は金沢に出張中)
6時ごろの電車に乗って
病院に着いたのが8時前。

そのとき、父は酸素マスクを顔に当てていましたが
血圧も脈もしっかりして、少しもちなおしているようでした。
兄はすでに勤務先の病院に出勤し、母と義姉がついていました。

呼吸は荒いものの落ち着いていたので、
母も義姉も朝ご飯を食べにいったん帰っていきました。
それで9時半頃からは、私ひとりで付き添うことになりました。

看護師さんたちの出入りの隙をみて
私は父の手を握りながら
小さな声で
千手観音の陀羅尼(なも・らとなとらや~♪)や
極楽誓願偈(えまほ~♪)や
ドルズィン・リンポチェメロディのおんまにぺめふんふりー♪を歌いました。

父はずいぶん耳が遠くなっていたのですが
今から思うとこの時
意識はもう、半分外に出ていて、いつもよりよく聞こえていたのかもしれません。。。
たしかに聴いてくれていたように思います。


主治医の先生は学会でお休みだったので、院長先生が診察に来られました。
刺繍つきの黒の網ストッキングに黒のピンヒール。
目の隈取りばっちりのお化粧の
なかなかにブッ飛んだ、40代半ばの女医さんです。

父の入院しているMリハビリテーション病院は新しい病院で、
古くからのM総合病院がすぐ隣りにあり
院長先生は、両方の責任者を兼ねています。

兄は、かねて主治医から、
リハビリテーション病院では最期まで看られません、
いざとなったらM病院に移ってください、と言われていたそうですが
当の院長にそういうニュアンスはなくて、
「もうこのままここでというご希望だそうですが、よろしいですか?
 あちらの病院に移れば、医学的にはいろいろ出来ることもありますけどね」
と確認してこられました。

私 「ええ、あまりもう濃厚なことは望んでいないので・・・」
院長「お父さまはお医者さんでいらしたそうですね」
私 「はい。父は、人工呼吸と胃瘻だけはしてくれるなと言ってまして」
院長「そうですね。治るものならしてもいいんですけど、そうじゃないですからね。
   もう、しんどいことはしない方がいいですね」

そして、鼻からの経管栄養チューブも抜きましょう、と言ってくださいました。
「もう当分の間、栄養を入れることもないですから。必要になったら、またすぐ入れることができますし」
私 「ああ!そうしてあげてください!日赤で入れたときも迷ったあげくだったんです」
院長「少しでも気持ち悪いものは取ってしまう方がいいです」
血液検査もしなくてよい、と看護師さんに指示されました。「検査は昨日もしたんでしょ?」
看護師さん「いえ、痰の培養だけです」
院長「いいわ。痛いことはやめましょう」

人によっては、このものの言い方ややり方に抵抗があるかもしれません。
でも私は、多くを言わなくてもこちらの意図を理解していただけたのが
ほんとうにありがたかったです。
(後で兄に聞くと、この院長先生は画家でもあるそうで、何枚もの大作が院内に飾ってありました)

おかげで父の体内に入っているのは最小限の管だけ・・・
とてもゆっくりと落ちる抗生剤の点滴と、導尿のチューブだけになりました。
よかった。。。
もうここまできて、無理して命を延ばすことはありません。
少しでも楽に、自然な形で逝ってもらいたいと思いました。


11時半頃でしょうか
ついウトウトとしていて、ハッと目がさめた瞬間、
父の呼吸が止まっているような気がしました。
ぎょっとして手を握って呼びかけたら
少しして、また息を吸い込んだのです。

気のせいだったのか?
ひょっとしたらこのまま逝くところだったのか。。。?

それから見回りに来られた看護師長さんが父を触って
「少し汗ばんでいますね」とエアコンを入れたり
酸素の濃度を上げたりし始めるのを見て
これは近いのかもしれないと思い・・・

午後からのチベット語レッスンをキャンセルする連絡を入れました。
さらに翌日の「中国地方会」にも参加申し込みをしていたのですけど
「無理かもしれません」と、お世話役の方に連絡しました。

その頃にはもう父は、全身で必死になって息をしている様子で、
両目とも、ずっと開いたままになっていました。

午後1時前、脈をとりにきた看護師さんが
固い表情で別の看護師さんを呼んで
その方は「このままいくと心臓の方も止まるかもしれません」
さらに、「呼んだ方がよい方がおられれば」と言われたので
母と兄に連絡しました。
これが1時ちょうど。

次の息はあるのだろうかと、こちらも息を詰めて父をみつめ
長い時間が経ったような気がします。

父はとても善い人なので、善趣に生まれ変わるのは必定です。
父の肩に手を置いて
「(道行きは)大丈夫だからね」と伝えました。

看護師さんが私の背中をさすりながら
「いつも呼ぶとニコニコお返事してくださる方で・・・」と言われました。
そうです。
いつもいつも父はいい人で
どこに居ても尊敬され、愛されていました。

私が父の額をなぜながら「そうやね、そうやね。(今まで)ありがとうね」と言うと、
それまで開きっぱなしだった父の目が閉じました。
たまっていた涙が少し流れ出て
同時に父は最後の息をしました。

私がありがとうを言うのを
待っていてくれたかのようでした。

走ってきた看護師さんに「今モニターで、心臓が止まりました」と言われ、
院長も来られて「ご愁傷さまです」とおっしゃり、
ああ、こういう場面なんだとぼんやり考えながら
「今朝のうちに管を抜いていただいたおかげで、あまり苦しまずに逝けました。
 ほんとうにありがとうございました」とお礼を言いました。

兄に「いま、父が亡くなりました」とメールしたのが1時17分。
急変してからほんの15分ほどと
あっけなかったです。

自分の施設に帰っていた母は知らせを聞いて軽くパニックになり、
車で送ってもらって、2時すぎに到着しました。
「なんであのとき帰ってしまったんだろう!」とずっと悔やんでおります。

でもね・・・
おそらく父は、母に休んでもらいたくて
いったん、もちなおしたのだと思います。
父は母のことを大好きでしたから。

それに、院長との話し合いの場に母がもし居たとしたら
話がもう少し、ややこしくなっていたかもしれません。

父は私ひとりの時を選んで私に判断を任せ、
さらにいつもの主治医でなくて院長を選び
死ぬ時を自分で決めたのだろうなと
これはもう、ほとんど確信しています。

亡くなったのは悲しいですし、
脳梗塞を起こしてからの2ヶ月は寝たきりで可哀相でしたが
最期は、この状況の中で一番よい時を選んで逝ったと思います。

人は主体的に生き
主体的に死ぬことが
本当にできるのだと思います。


冒頭の写真は2013年10月
神戸のホテルオークラで卒寿のお祝いをしたときに撮ったもの。
父も気に入っていたこの写真を、遺影に使いました。

 
 
 

 
 
 

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# by prem_ayako | 2017-06-23 21:37 | family | Comments(0)

父の転院

母へは、兄から話してもらいました。
兄の方が母から信頼されているからです。

それでも、兄も最初は話し出せず、
翌日にもう一度会いに行って、ようやく話ができたようです。
なんですぐに言わなかったの!?と責められたそうですが(^_^;)

翌週の日曜日に私が病院に行くと
ちょうど母が来ていました。

母は椅子にも座らず父の横に立って、ずっと話しかけていました。
昼間は起こしておかなきゃと考えているようです。

新婚旅行の話をしていました・・・

一緒にあちこち旅行行ったよねえ。
最初はどこ行ったか覚えてる?
伊豆だったよねぇ。
最初の日に泊まった旅館は、ものすごくいい旅館で、
あそこなんていう旅館だったかしら?
○○閣?
(ここで「○○閣!」と父がはっきり繰り返しました)
そうそう、○○閣。覚えてるのねぇ。
お部屋も広くて、お料理も豪華だったねえ。
(父、はっきりうなずきます)
はっきり覚えているのねえ。
それなのに、なんで昨日私の名前を忘れてたの?
今度聞かれたら、ちゃんと久子って言ってねえ。。。

なんて、ずっと語りかけていました。。。


あまりに母が父のところへ通うので、
今度は母の身体が参ってしまうのではないかと
兄が心配していました。


熱も下がり、梗塞も広がっていないので点滴の管は抜けましたが
鼻から入れた栄養の管と導尿の管は抜けません。
先日まで居た施設は、経管栄養の状態では受け入れてもらえず
自分で口から食べられるようになるか、
あるいは胃瘻の状態になるか(!)
でないと戻れないのだそうです。

状態が落ち着いてくると
急性期の患者さんで溢れかえっている日赤病院に
いつまでも居るわけにいかず、

5月16日、倒れてからほぼ1ヶ月で
同じく神戸市内のリハビリテーション病院へ転院となりました。


「リハビリ」という言葉、私はしっくりこないのです。
目標は、自力でものを食べられるようになって
もとの施設に戻れるようになること、というのですが
・・・でもそれって、現実にはどうなの?
92歳の父が、これからリハビリ?

みんな無理だって分かっているのに
父の身体がどこに向かっているか、みんな知っているのに
そこを見て見ぬふりをしているんじゃない?
みんなで申し合わせて
単なる符牒を言ってるだけなんじゃない?

そんなふうにモヤモヤしながらも
私も同じ芝居に加わります。


先日の日曜日、転院先のリハビリ病院に行ってきました。
新しいきれいな病院で、個室も広く、思っていたよりも印象はよかったです。
日赤にいたときは半分閉じたままだった右目も
大きく開くようになっていました。

母もまた来ていました。
父は、いつかの夜中に自分で管を引き抜いてしまったそうで、
誰も来ていない間は、手袋による拘束をされているようです。

あのとき下したひとつの判断が
次々と、父に新たな苦をもたらしているようで
辛いです。

かといって、あの時点で口からものを食べさせていたら、
おそらくは誤飲や誤嚥で、肺炎を起こしていたでしょう。

どうすればよかったのか。
考えても仕方ないのですが。。。


その日の帰り際、久しぶりに父の意識が清明になったようでした。
目に力が戻り、
ベッドを起こしてくれた看護師さんに向かって
にっこり笑って、「ありがとう!」と言いました。
施設にいた頃、「本当に笑顔がすてきですね~!」と
職員さんたちに好かれていた、父の特別の笑顔です。


父の生きているかぎり
父の存在は、灯りとなっている。

そう、生きているだけで灯りなのです。
父の命を灯したり消したりするのは私たちではありません。
私たちが何をどう判断しようとも、
そんな力は人間にはありません。

そう思うと、もう
委ねよう、と思えました。


父の命の続くかぎり、
できるだけ会いに通おうと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
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# by prem_ayako | 2017-05-23 21:03 | family | Comments(0)

父の入院

4月半ば、父が脳梗塞で倒れました。

ドルズィン・リンポチェのリトリートが終わって
ようやく心身が日常に戻って、
月末の「かささぎ座」まで、少しひと息つけるな、という時でした。

木曜日のお昼ごろ、ご飯を食べようとしていると
父の入所している施設から携帯に電話がかかってきたんです。
出ると、いつもお世話になっているケアマネージャーさんで、
どうしても兄と連絡がとれない、
今、救急車がきて父を搬送するところだと言います。

すぐに行きます!と答えましたが
うちから神戸まで、2時間はかかります。

電車に乗っている間も、何度かケアマネさんから電話が入り、
神戸の赤十字病院に搬送されたことが分かりました。
母にはまだ連絡していないがどうしたものか?とも尋ねられました。
母がすぐにパニックになることを、父の施設の方たちもよくご存知なので。

母に連絡するのは、私が父の様子を見てからにしてほしいと答えました。

三宮からタクシーで日赤に着いたのは午後2時半ごろ。
施設の看護師さんが付き添って待ってくださっていました。
父は私の呼びかけに、はっきり答えてくれました。

前の晩、施設で、めずらしく食べたものを少しもどしたのだそうです。
それでも吐いたあとはすっきりした様子だったのが、
今朝10時半ごろ、右目の視線の向きがおかしいことに気がついたのだと、
施設の看護師さんが詳しく説明してくださいました。
かかりつけ医に連絡したところ救急受診を勧められ、
緊急入院に至ったということです。
考えうる最も早いタイミングで対処していただけたのだと思います。

ドクターの説明を受けたところ、
脳幹部の脳梗塞を起こしているということでした。

父、大正13年生まれの92歳です。
ついに来るべき時が来たと思いました。

さまざまな検査と
入院手続きの書類。

こういう時にかぎって、なぜか兄と連絡がとれず、
私ひとりですべて行いました。

点滴と
心電図モニターと
血圧計と
脚部の血栓予防の機械につながれた父。

新たな梗塞を起こさない限りは、今すぐ命の危険はなさそうでしたので
その日は夜8時ごろまで付き添って、いったん滋賀の家に帰り
翌日また出直して行きました。


父は、呼びかけると意識はあるものの
眠っていることが多く
言葉も不明瞭になっています。
また、夢を見ているのか、あるいはそこに何か見えるのか、
ときおり宙に手を伸ばしたり、誰かに呼びかけるようにします。

手足の麻痺は幸いないようですが、
身体についた管を無意識に取り除こうとするので
気をつけてやさしく注意しなければなりません。

尿意があるのに立てないので
おむつの中にしなければならず、
それはどうしても出来ないみたいで
しかたなく、そのたびに導尿してもらうのです。

さらに、何も食べていないのに喉がゴロゴロいって
ときどき痰を吸引してもらわなくてはなりません。
口から食べる練習もしましたが、難しいようでした。

倒れるその日まで、自分でトイレに行って、自分で食事をしていたのに。

夕方、主治医に
鼻からの経管栄養と導尿カテーテルの保留を勧められました。

私はどうすればよかったのでしょう。

その場では、いったんお断りしました。
父にとっていちばんよいようにしたいこと
父の意志を確認したいこと
家族と相談してからにしたいこと、などお話しして。

ドクターと看護師さんは、そこで断られるとは思っていなかったようで
すでに器具を用意してきておられましたが、
分かってくださいました。

夜、ようやく連絡がとれて駆けつけた兄と相談しました。

父は「人工呼吸と胃瘻は絶対にやめてくれ」と言っていたことを確認しました。

それでは、経管栄養と導尿はどうするか?
導尿は、してあげないと父が辛いでしょう。
経管栄養は?

たとえば大きなJ先生は、
「自分が口から食べられなくなった時には、もう何もしないでくれ」
とおっしゃっています。
経管栄養どころか点滴だって拒否されるでしょう。

・・・でも父は、そこまで言っていなかったようです。
兄は、ずっとというわけじゃない、
救急期の一時的な措置として、栄養は入れていいんじゃないか?
と言います。

・・・ですが、この年齢で一度入れた管を
いつか取りはずすことができるものでしょうか?

かといって、ここで何も栄養を入れなかったら・・?

結局私は、兄に反対することができませんでした。
あくまで一時的な措置として
と自分を納得させて。

その夜は三宮にホテルをとりました。
やっぱり大津~神戸の往復は大変です。

翌日、父が倒れて3日目、
鼻からの管とおしっこの管が入れられました。
それらの管を触らせないように、父の手に大きな手袋がはめられました。

父は手袋を厭がり、
私と目が合うと「取って」と訴えかけます。
「これはね、はめとかなきゃいけないんだよ」と言うのですが
辛いです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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# by prem_ayako | 2017-05-23 20:57 | family | Comments(0)

ソンタルジャ

しばらくとっても忙しかったんです。
いやもちろん、4月末は2泊3日の「かささぎ座」、
5月連休は4日連続の「秘訣講座」、
さらに9日から箕面でのパセージが始まったということもありますが・・・

それに加えて
というか、その合間をぬって
連日大阪まで映画を観に行っていたからでございます(^^;)

書記のお仕事をさぼったり
秘訣講座を途中で抜けだしたり
チベット語レッスンの時間を遅らせてもらったり(滅茶苦茶やっとるなぁ)
あれこれ諸方面にご迷惑をかけまくってm(_ _)m
そこまでして観たかった映画って何?

実は、大阪の第七藝術劇場という映画館で、
「チベット映画傑作選」と銘打って
毎日、日替わりで、今日までチベット映画が上映されていたのです。
b0253075_22501646.jpg
先日から、『草原の河』という
チベット人監督による、チベットで撮影された、チベット語の映画が
日本ではじめて劇場公開されています。

それに合わせて
今まで日本で観る機会のほとんどなかったチベット映画が、
1日1本ずつ(^^;)上映されていたのです。

こんなチャンス、逃すわけにいかんでしょ。
いつまた上映されるか分からないんですから。

まあ、オタクな世界でしてね。
第七藝術劇場(通称ナナゲイ)は知る人ぞ知る小さな映画館でして
私はかつてここで、観客たったの3名という経験をしたことがありますが、
今回は、もう少し多くて、いつも10人以上は観客がいましたね(^^;)
土日はさすがに30人ほど入っていましたけど、平日になるとぐっと減りました。
しかもだいたい同じお顔ぶれでしたね。。。


そして私は、すっかりはまってしまったのです!

・・・それで、誰も求めてはいないけれど 笑
私のイチオシのソンタルジャ監督について、熱く語ることにいたしましょう(^^;)


ソンタルジャは
第一作が『陽に灼けた道』2010年
第二作がいま絶賛全国公開中の『草原の河』2015年

私は、どちらかというと第一作の『陽に灼けた道』の方に、
より深く引き込まれました。

陽に灼けた道 予告編

どのカットも無駄なく美しく、
もうかたときも目を離せなかったんです。
息苦しいほどに、集中して観ておりました。。。
台詞も、音響も、考え抜かれ
不要なものがそぎ落とされ、
クライマックスで、静かに静かに涙が溢れてくるという・・・
第一作にして、ものすごく完成度の高い映画でした。

そして最後のシーンの語るものは何か・・・
それからずっと後を引いて、考え続けています。
どこかでチャンスがあるなら、また必ず観たいと思っています!

第一作『陽に灼けた道』の全力投球度に比べると、
『草原の河』の方は、きっと意図的に、少し「遊び」があって
まだ少し、息がつけました。
(しかしこれも完成度めちゃ高いです!オススメです!)

なんといっても主人公の女の子が可愛いくて可愛くて。
可愛すぎてせつなかったです。。。

草原の河 予告編

どちらの映画も、
生まれることと死ぬことをストレートに扱っていて
その背景が
埃っぽい道だったり
草原だったり
凍った河だったり
現実の、今現在のチベットなのでした。


ところで、数年前に観たペマ・ツェテン監督の『静かなるマニ石』2005年が、
私とチベット映画との出会いでしたが、
今回、ペマ・ツェテンの『草原』2004年と『ティメー・クンデンを探して』2008年も
観ることができて良かったです。

実は、ペマ・ツェテンの映画の撮影をしているのは、ソンタルジャなのです!

彼らは同じ北京電映学院の出身で
ペマ・ツェテンは脚本、監督、
ソンタルジャは撮影、
もうひとり、ドゥッカル・ツェランは録音技術を学んで
3人でタッグを組んで、次々とチベット映画を撮ってきています。
すごい友情ですよね~

『ティメー・クンデンを探して』における
ソンタルジャのカメラワークは、すばらしいです!

会社社長が自分の初恋の物語を話している間、
じっと黙っている後部座席のスカーフの娘。
窓ガラス越しに、この娘の目がうるんで見えるところとか

b0253075_2251578.jpg


社長の初恋の語りが佳境に入ったころ、
いきなり現れた羊の群れが道を塞ぐところとか

そして最後、娘が別れた恋人と再会するところ。
遠くからロングで校庭を見下ろすカメラ。
あえて、ふたりの会話や表情が見えないように。

うまいなあ!
と、すっかりソンタルジャのカメラに魅せられた私は思うのでした。


でも、こうやって書いているうちに、

私がなぜソンタルジャを
カメラワークだけでなく、監督として好きなのかが
分かってきました。

ソンタルジャの映画の基調になっている感情が、「悲しみ」だからだと思います。

たぶんそのせいで、
彼の映画は、とても深いところに触れてくる感じがします。

どうしようもない運命にであった人間が
その悲しみから立ち上がっていく過程を描くことが、
いつも彼のテーマなのじゃないかな・・・

じんわりと、あとに効いてくる
よい映画とであいました。
みなさまも、機会があれば、ぜひ。
 
 
 
 
 
 
 
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# by prem_ayako | 2017-05-12 22:41 | tibet | Comments(0)

チベット語会話

5年ぐらい逃げ回っていたタスクと
b0253075_1626912.jpg向き合わねばならないときが
ついにやってきたようデス・・・

いやなに、
チベット語会話なんですけどね。

もともとチベット仏教に興味をもった時点では
まさか自分がチベット文字を読むようになるとは考えておらず

まさか自分にチベット語を教えてくださる方々が
身近に
次々と
現れるとは思っておらず

さらに、今度は
まさかチベット語会話を学ぶはめに陥るとは・・・

どうやら私は、
いつも師から
上手に勇気づけられてしまうという
星の下に生まれたようです(-_-)


ドルズィン・リンポチェは
来日されたその日から
「チベット語会話も習たらええのに。そしたら俺ら、喋れるやん」
ておっしゃっておられました。
(ホントはきっと、もうちょっと丁寧な英語)

その後も、やっぱりたびたびそうおっしゃいます。
1週目の前行が終了した日、
晩ご飯を膳所のご飯屋さんで済ませてホテルに帰る道すがら
「ほんまに会話もやりぃや。
 ゆっくりゆっくりでええから勉強し。
 そしたらある日、チベット語が、あっというほど分かるようになってるで」
って、しみじみおっしゃいました。
(なんでこんなに大阪弁で聞こえてしまうのかしらん)

それでね、ときどきテストもされたんです。
ポットを運んでたら、「何が入ってるんや?」
「空です」
「Empty! Good! In Tibetan?」
あのね。
英語喋ってるときは英語脳になってるの。
いきなり言われてもチベット語単語出てこないの。
「え~と、えーっと」
「とんぱ やんか」
「あ、そうだった、とんぱです~」

「正確には、とんぱは empty、とんぱにーが emptiness やねんで」
「はい~」
みたいな。


もっと若い頃にチベット語を習い始めていたなら別ですが、
なんせ50台から始めていますからね、
今生でチベットに行くことはないだろうと思っているのです。

だけど、まさか、こっちへチベットの方をお招きすることになるなんてね。
こうなると、ほんとに少しぐらいは日常会話できる方が便利ですね。

アドラー博士も、60才になってから英語を学び始められたと聞きます。
そしてアメリカで講演し、アメリカの大学で教職につかれたのです。

それを思えば・・・私も、今ならまだ間に合うかも。
何も難しいご法話を分からなくていいので、
ただ、「その壺をとれ」とか「小皿は6枚必要だ」とかが分かればいいのです。
逆に、今を逃せば、もう無理かもしれません。

つうわけで、W先生にお願いして
現代チベット語会話を学び始めることにしたのです!


先週の火曜日、
チベット語会話初回のレッスン。
テキストは、ちょうど出版されたばかりの『ニューエクスプレス チベット語』でした。

レッスン1は「Hi, I'm Ayako」のレベルですが(^^;)
おお!ドルズィン・リンポチェに習った
「くすでぽいんぺ~(お元気ですか?)」が
ちゃんと本に載っています。
スペルがわかってうれしい♪

だいたい、リンポチェは「けらん(あなた)」を「ちぇらん」って発音しておられたし。
「らまけんのー(上師よ見そなわせ)」も「らまちぇんのー」だったし。
テキストにはラサ発音のCDがついていますが、これは、ほぼ役に立ちません。
私の師たちは、残念ながらみなさんカム訛りなので!

b0253075_16274427.jpgさらに言われて急ぎ購入したのが、
『旅の指さし会話帳 チベット』という本です。
単語力アップに良さそうです!

1時間ばかりW先生にみっちりレッスンしていただいて、
と~っても楽しかったのですが、
あと、ひじょーに頭が疲れていました。
そりゃそうよね。。。

1ヶ月に1回ぐらいのペースで「ゆっくりゆっくり」続けて
1年後のドルズィン・リンポチェ再来日のみぎりには
うふふ・・・チベット語のお喋りを披露したいと思いますw


それから数日たったある日、携帯がぴろん!と鳴って何かメッセージが届きました。
見たらドルズィン・リンポチェからでした!

b0253075_16302865.jpg「たしでれ~ Ayako も Jalsha も元気でやっておるか?
 わしは今、日本食のレストランで食事をしておるところじゃ。
 たいへんおいしいぞ。
 チベット語の勉強をしっかりするのじゃぞ」

・・・と、チベット語で書いてありました!
解読に数分かかりました(=_=)
(なぜかチベット語は老僧風・・・)

お写真つきです(^o^)

こうなったらチベット語でお返事を書こうと思いましたので、
お返事を出すまでに、またかなり時間がかかりました(>_<)
『旅の指さし会話帳 チベット』をめくって「おいしそう!」というフレーズを見つけ、
「リンポチェ、たしでれでございます。
 私ども2人はとても元気にしております。
 とてもおいしそうでしゅね」などと書きましたとさ(笑)


ちなみに、大きなJ先生ところにチベット語メッセージは送られてきません。
どうやらチベット語会話については、私がターゲットになっているもようです。

いやーなかなかに楽しい暮らしです(T_T)


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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# by prem_ayako | 2017-04-09 16:33 | tibet | Comments(2)

阿難と摩訶迦葉

b0253075_22345231.jpg私に一体いかなる福縁があったのでしょうか?
今生で生きた仏陀であるガルチェン・リンポチェとお会いでき
生きた菩薩であるドルズィン・リンポチェのお世話を
少しばかりさせていただけたなんて。

チベット仏教に興味を持ち始めたのは
2011年秋。
思えばもう5年半も前になるのですね。
もちろんその頃は、未来の私がこんなことしているなんて(^^;)
想像もしませんでしたよ。

2013年夏にはじめてシンガポールに行って
ドルズィン・リンポチェにお会いしました。
b0253075_2237178.jpgこんなにお近づきになれたことも、ほんとうに不思議です。

あの時は、ただただガルチェン・リンポチェにお会いしたい!
それだけの思いでシンガポールに飛んだのです。

強い陽射しの中、今よりもう少し細身だったドルズィン・リンポチェが
ダルゲ・リンの前に立っておられた姿を思い出します。
 What is your lineage?と聞かれたので、
 - Garchen Rinpoche.と答えると
 Garchen Rinpoche? So do I. Same.
と笑われました。


俗世のご縁でいえば、
もちろんアドラー心理学の師匠である大きなJ先生とのご縁が深いですし
そのおかげでさまざまなお仕事をいっしょにさせていただいておりますが

その他にも、まるで目まいがしそうなほど
さまざまな縁と因とが互いに絡みあい結びあいしているように感じるのです。


今回のリトリート開催にあたって、
ほとんど全日、通訳を勤めてくださった素敵なWさん。

Wさんとのご縁が結べたのは、
アドラーのお友だちのNさんが
チベット語をいっしょに学ぼうと私を誘ってくださったからです。

そもそもNさんがチベット仏教を学んでおられることを、当時私は全く知らず、
2011年にはじめて行った大阪のポタラカレッジで、
私の前の席にNさんが偶然、座っておられたのです。
不思議ですよねぇ!

私たちの最初のチベット語の先生はタンカ絵師のMさんでしたが
2015年から、Wさんにお願いして学んでいます。
そのご縁で、このたびの通訳をお願いしました。
引き受けてくださってほんとにほんとに助かりました!

今回のリトリートの成功要因は、文句なしに、
W先生の美しく分かりやすい日本語通訳でした!
ね!!(^_^)v


また、チベット風の祭壇用の布を調達できたのも、
Wさんが、お知り合いの広島龍蔵院のラマさまにお願いしてくださったからなのです。
なんと畏れ多いことに、私たちディクン・カギュ派なのに
ゲルク派のラマさまに、ネパールでのお買い物をお頼みしてしまいました(^_^;)


さまざまなご縁を
ほんの少し考えてみただけでも、
予想もしない以前からの因が熟して
この2週間のリトリートに結実していたことが分かります。

当然それは私だけでなく、
参加者のみなさんも、それぞれの因と縁とがそれぞれに実って
今生で、生きているダルマに出会われたのです。

アドラー心理学を学んでこられた方が多かったわけですが、
どうですか? こんなところに辿りつくなんて~
予想しないですよね、ふつう(*_*)



少し話は変わりますが、
お釈迦さまの晩年のお弟子に
マハーカーシャパ(摩訶迦葉)という方と
アーナンダ(阿難)という方がおられました。

マハーカーシャパはクールで実際的な方だったようで
たいへん賢くて政治的な配慮に長けていて
お釈迦さま亡きあとのサンガは、
マハーカーシャパの下でうまくまとまっていったそうです。

アーナンダは、お釈迦さまのことが好きで好きで大好きで
ずっと身の回りのお世話をしていました。

阿含を読むと、お釈迦さまの亡くなる前後の
アーナンダの後悔や悲しみが細やかに描かれていて胸を打ちます。

マハーカーシャパは優秀で、お釈迦さまご存命のうちに悟りを開きました。
アーナンダは多聞第一と言われ、
お釈迦さまのおそばでたくさんのお言葉を聞いて学びましたが
お釈迦さまご存命の間は悟りませんでした。

喩えるのも畏れおおいことですが・・・
おそらく
ライフスタイルの傾向としては、
私はアーナンダの方で、
J先生はマハーカーシャパさまなのだろうなと思うのです。


サンガにはどちらの個性も必要です。
サンガには、
どんなときも醒めた理性を維持できるマハーカーシャパのような人が何人か必要だし
私のようにうっとり系の(少しばかり)狂信的な信者も
情の部分の受け皿として必要だと思います。

しかしアーナンダだけでは組織が立ち行かないし、
マハーカーシャパだけでは、つまらないでしょう。


サンガ(教団)を運営する主体の側になるとは思ってもいませんでしたが

なんと私、はじめてシンガポールに行った直後の2013年9月のブログ
Sanghaという記事の後半に
既にそんなことを書いておりました・・・!

ということは、
こうなるべくしてこうなったんでしょうね。。。

今後も私たちは、根本上師ガルチェン・リンポチェのお教えを
類い稀なる兄弟子ドルズィン・リンポチェから、学んでいきます。

J先生は知の部分、私はその他の部分で
お仕事をしていくことになるのかな、と思います。
これからも、どうかよろしくお願いいたします。
 
b0253075_22311353.jpg
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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# by prem_ayako | 2017-04-02 22:49 | tibet | Comments(2)

生きているダルマ

歩き疲れたので
東寺内の小さな喫茶店にみんなで入りました。

ひなびたお店でしたが、窓の外に鯉の池があり、
西日がやわらかく差す席で、
リンポチェはとてもくつろがれたご様子でした。

ミュージアムをいくら見ても仕方がない、ということなのでしょう、
「他の寺にはもう行かなくていいよ。I am happy here」
とおっしゃるので、風が強くて寒い日でしたし、
ここでゆっくりと過ごすことにしました。


日本の仏教はたしかに死んでいます。
人々は死んだ目をして毎日の生活に追われています。
でも心では本当のダルマを教えてくださる人を探し求めていました。
日本に生きた教えを伝えてくださってありがとうございます。
とみんな口々に、リンポチェにお礼を言いました。

日本は仏教国だ。
日本人には、もともと仏教に対する信仰がある。
正しいダルマを知れば、日本人は変わるだろう。
とリンポチェはおっしゃいました。

リンポチェが来てくださって本当にありがたい。
私たちはほんとうに渇いていたんです。と言うと、
Thirsty? Then, drink water!
と混ぜっ返されます(^_^;)

あるいは、質問したり
自分たちのセッション中の体験をシェアしあったり
リンポチェもあれこれくつろいだお話をしてくださったりして、
とっても楽しい美しい時間でした。


リンポチェがお話をなさっていると、
外の池の鯉も、窓際のリンポチェの方に泳いできましたし
鳩もリンポチェの窓の外に飛び降りました。

本当に起こっていたのですよ。

私たちは、ほんものの、生きたブッダにお会いしていたのです。
人身得難く正法逢い難し。
私たちはこの2つともに得るという、奇跡の中にいたのです。

b0253075_1152659.jpg


夕日の中、京都駅まで歩いてもどって
荷物を受け取り、
ご一緒してくださった○さん、Bさま、Kちゃんとお別れし、
私はリンポチェと特急「はるか」に乗り込み、一路、関西空港に向いました。

2人掛けの席で、もちろんリンポチェには窓側に座っていただき、
私が切符をお預かりして、ゆっくり休んでいただきました。

お疲れのリンポチェは真っ直ぐにお座りになったまま目を閉じて
関空に着くまでの1時間半、
物音ひとつさせず、深い眠りに入られたようでした。

私もリンポチェの眠りを妨げないように
静かにこの2週間のことを思い出しておりました。

ともに過ごさせていただいて、ようやくコミュニケーションが取れるようになりました。
思えば最初に来られた日には
私たちがリンポチェの英語のアクセントに慣れていなくて、
なかなか意思疎通がうまくいきませんでした。
来日早々、リンポチェは困ったもんだと思われたかもしれません。
今ようやく、ちょっとこみいった話でも
あるいはざっくばらんな個人的な話でも
気軽にできる関係ができたのに
もうお帰りになってしまわれる。

私たちは信じられないような日々を過ごしましたが、
リンポチェのおられない日々もまた、信じられないような気がします。


終点が近づくとリンポチェは自然に目を覚まされて、
I had a good sleep.
と微笑まれました。

凄いですね。
お休みになるときも
覚者とはこういうふうなのですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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# by prem_ayako | 2017-04-01 23:59 | tibet | Comments(2)

東寺

全部のプログラムが26日に終わって
翌日の月曜日は、
リンポチェを囲んで、数人で京都ツアーに行きました。

リンポチェをいちど京都にお連れしたかったし
あまり混むところは避けて
とりあえず空海建立の密教寺院、東寺と
時間が余れば東福寺も、と考えていました。

11時にチェックアウトしていただいて、
リンポチェのスーツケースを○さんがひっぱってくださって
膳所まで歩き、ローカル電車に乗って京都へ。
ものすごい人混みの京都駅で荷物をあずけて
さあ出発!

リンポチェは、京都駅の大きさにびっくりされたようで
日本でいちばん大きい都市は?
2番目は? 3番目は? といろいろお尋ねになります。
1番大きいのは東京で、政治・商業すべての中心。
2番目は大阪で、商業都市。
京都は3番目で、明治になるまで長く天皇のおられたところです。
(と答えたけれど、合ってます?)

日本の天皇についても、あやしい知識と英語でご説明しました。
2500年間、ひとつの lineage で続いていることや
戦乱で京都におられなかったときを除き、
ほぼ1200年京都にお住まいだったことなどお伝えしました。
(合ってます?)

b0253075_11445999.jpg

白木蓮の花が咲いていて、
リンポチェはこの花から薬ができるのではないかなと、
花びらの匂いをかいでおられました。
咲いている姿はとても美しいのに
歩道に落ちた花びらは残念なことに汚れていて
空と無常の現れだ、など
とってもリラックスしておしゃべりされました。


道ぞいの食堂できつねうどんや親子丼を召し上がっていただいて
(なんでいつもこんなにローカル ^^;)
ようやく東寺につきました。

手水場で私たち俗人は、手と口をすすがなくてはなりませんが、
リンポチェはお坊さまなのでその必要はありません。
でもリンポチェは、「それはよい習慣だ」とおっしゃって
いっしょに手と口をすすがれました。

まずは食堂の十一面観音さまにお参り。
リンポチェはお堂に入られたらすぐに毛糸の帽子を脱がれます。
観音さまの前で真言を唱えられ
日本の習慣にしたがって、お賽銭をあげられました。

それから有名な講堂の立体曼荼羅へ。

大きな空間に、大日如来を中心とした迫力ある立体曼荼羅。
私なんぞはリンポチェとこの空間にご一緒することだけで
もう感動しちゃうのですが

リンポチェはさっさと歩かれて
少し真言を唱えられただけで外へ出られました。

金堂の大きな薬師如来も見ましたが
あまり興味は示されず
「ここに僧は住んでいるのか?」とお尋ねでした。
「たぶん住んでいません」
「観光客だけ?」
「そうですね。在家の信者が年に何度か集まって法要をしているようですが」
「僧は住んでいない?」
「いないようです」
「そうか」

宝物殿にも行きましたが、入ったとたんにリンポチェは
Ah, museum! と呟かれました。

大きな梵鐘の前でおっしゃったお言葉は忘れられません。

Before, monks beat it and everybody came.
Now, it is in the museum and nobody comes.
(昔は、この鐘を僧たちがつくと人が集まった
 今、鐘は美術館におさまって、誰も来ない)

おっしゃる通りです。

私たちは何も考えていなくて
リンポチェと日本のお寺でご一緒していることだけで喜んでいたのですが、
リンポチェは常に、dharma が生きているかどうかを見ておられたのです。


それから五重の塔の前で記念撮影などしてぶらぶら歩いていると、
幼稚園児がピヨピヨと整列しているところに出会いました。

リンポチェ、めずらしく
「あの子どもたちと写真を撮ってくれ。先生に頼んでくれないか」と
リクエストされました。

若い先生にお願いしてみましたが、
子どもの顔がネットに流れるのを気にしてる様子・・・
でも、その間にリンポチェは、
もう子どもたちの後ろに並んでしまわれました。

b0253075_11491179.jpg

とたんに、子どもたち、きゃぁきゃぁ大喜びです。
リンポチェのお顔もものすごくうれしそうで、
今まで拝見したことのない、くっしゃくしゃの笑顔です!

子どもたちはもう、嬉しくてたまらない様子で
リンポチェの頭を叩いたりさわったり、ひっぱったり、
なんていうんでしょうか
いきなり大きなエネルギーが現れたのを感じ取ったみたいで
ものすごく活気づいているのです。
子どもには、わかるんですね!

b0253075_11475218.jpg


この一瞬の変化!
驚くべき変化でした!

b0253075_11503423.jpg

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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# by prem_ayako | 2017-04-01 23:52 | tibet | Comments(0)

アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。


by prem_ayako