アードラーの夢

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アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。

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鴨居の上から

母は、父が亡くなった直後は
死に目に会えなかったことをずっと悔いて泣いていましたが、
孫たちに囲まれて
お通夜の晩とお葬式の日の昼、いっしょに食事をするうちに
だんだんと笑顔が増えてきました。

死者との別れに
こういう時間は、ほんとうに大切ですね。

87歳の母をいたわらなくてはならないということは
言葉に出さずともみんな合意していましたので

母の言うことが少々変であっても誰も否定せず、
黙ってうんうんと聞いておりました。

そうしていると母の話は際限なく脈略なく続くのですが、
後悔や不安の話が出尽くすと
どんなに父がよい夫だったかというプラス面の話になり、
それが何巡もしてまた出尽くすと
ようやく周囲の人々の方に目が向いて
自分以外のあれこれに関心を示すようになりました。


結局、母はさびしかったのかもしれません。
父が老いて
母の尊敬する賢い父でなくなり
母のお喋りを楽しく聴く父でなくなり
母をいたわる優しい父でなくなってしまったから。

母のお喋りを聞いてあげる人が必要だったのですね。。。

今こうやって少し距離をおいて母を眺めると
私はこの小さな老女に
彼女の能力を超えたことを求めていたのだと分かります。

私は未だに母に幻想を抱き
現実以上の母を求めていたようです。
親離れ、出来ていなかった、ということかもしれません。
申しわけなかったです。


神戸市の斎場は、
住吉川上流の山の中腹にあり、
葬儀会館から斎場への送迎バスで
私は母の隣に座っていました。

とりとめもない母の話は問わず語りに続き
なんと、母の早期回想にまで至りました。


小さいころ私ジフテリアか何かで死にかけたことがあったのね
みんながまわりで久子ちゃん久子ちゃんて名前を呼ぶのを
古い家だからお座敷の上に鴨居があるでしょう
あの高いところに私ちょこんとすわってね
みんなが布団のまわりにいるのを上から見ていたの
みんなが久子ちゃん久子ちゃん言うてるのをね
そしたら急にどんっ!と下に
引っぱられたか落ちたかそんな感じがしてね
気がついたら布団の上にもどってたの

私「え~っそれって臨死体験やん」

そうなの
それでぜんぶ見えてたの
お手伝いさんが洗面器にお水を運んできてね
それを私の寝かされてるお布団のすそに
ちょこっとこぼして濡らしたのよ
私それもよくよく見てたから
あんたあそこにお水こぼしたでしょって後で言ったのも覚えてる

「そうか~名前呼んでもらったから生き返ったんやねぇ」

そうよ
あんた、あの時おとうさま呼んでくれた?!

「ああ、呼んだよ。看護師さんも一緒に呼んでくれてたよ」

母を安心させるため咄嗟にウソをつきましたが
本当は、最期のときは呼びませんでした。
小さな子どもが死にそうなら誰もが呼び戻そうとするでしょうが
高齢で病気の父を呼び戻してどうなるというのでしょう。
もう身体は役目を終えたがっているのに。


でも、お葬式が終わり
日常の生活にもどってしばらく経ったある日、
いきなり思い出しました。

父の亡くなったあの日、
11時半ごろに一瞬、父の呼吸が止まったような気がしたとき
私は父の名を呼んで引きとめたのではなかったか?

あのとき私は本能的に
父に生きていてほしいと願いました。
引きとめることがどういうことかなんて考えずに
ただ、私の愛着から父の名を呼んだのです。

父は
ひょっとしたら病室の天井か
カーテンレールの上あたりに座っていたものを
私の願いに応えて
どんっと戻ってきて
もう少しだけ一緒にいてくれたのかもしれません。

あるいは、私がウトウトしている間に逝ってしまっては
かわいそうだと考えて
鴨居の上から呼びかけてくれたのかもしれません。
「ほら目を覚ませよ
 でないとこのままいっちゃうで」って。

そうして、最期の時間を私に与えて
しんどい呼吸をもう少し続けてくれて
思い残すことがないようにしてくれた。

だから「ありがとう」を聞いて
もう逝っていいって思ったんだね。

最期までやさしい父でした。

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上の写真は今年のお正月、息子の結婚式の写真を見ている両親です。
下は昨年10月92歳のお誕生日に、お祝いに行って撮りました。
どちらも父がお世話になった施設の一室です。
ほんとうによくしていただきました。
たくさんの方に助けていただいて父は天寿を全うしたと思います。
みなさま、読んでくださってどうもありがとうございました。





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by prem_ayako | 2017-06-23 21:56 | family | Comments(2)

枕経

葬儀社の方が病院にお迎えに来られたのが10日の午後4時。
この日は友引だったので、
お通夜は11日の日曜日
お葬式は12日の月曜日ということになりました。


日曜は午後の納棺までに神戸に行けばよかったので
朝ゆっくりと自宅で金剛さったの浄化法を行いました。
自分自身をきれいにして父を送りたかったのです。
百字真言を108回唱えると、さすがに少しはきれいになった気がしました。

私は昨年ポワを教わったので
死にゆく人のためにポワを行じるやり方も習っています。
私の行で父を極楽に送ることができれば、本当はいちばん良いのですが・・・
とても、まだそんな力はありません。
父の魂を極楽浄土へという件に関しては
この夏ガルチェン・リンポチェにお会いして、そこでお願いするのが確実と思います。

では私は父のために何ができるか?というと
やはりマニ廻向ではないかな?と思いました。
父には、ターラー菩薩より観音菩薩の方が似合っている気がするのです。

浄土真宗大谷派のお坊さまとはまた別に
私個人で父に詠み聞かせる枕教として
ドルズィン・リンポチェから教わった『観音菩薩成就法』のテキストを持ちました。
そして1泊する用意をして、また神戸に向かいました。

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納棺のとき、
ガルチェン・リンポチェの法会でいただいた
お加持つきの赤いお札と
赤い小さな『極楽誓願』の本とを
父の胸元にすべりこませました。

こうして父とリンポチェとのご縁を結んでおけば、
必ず助けになるはずです。


来生も父は人間に生まれて、再びお医者さんになって
また衆生を助ける仕事に勤しむような気がしますが
そのときにきっと、
次の代のガルチェン・リンポチェにお会いすることができるでしょう!


b0253075_21240018.jpg娘は、子ども2人を旦那さんにあずけて
鳥取から駆けつけてくれました。
(今夜は娘と私とで夜とぎです)
息子もお嫁さんと一緒に、都合をつけて来てくれました。
父も喜んでくれたと思いますし、
私もどれだけ心強かったか!


母と兄一家と息子夫婦がそれぞれの家に帰った後、
夜11時、ひんやりした会場で、
私ひとりで父とまた向き合いました。

父の顔は蝋細工のようで、
もはや知らない人のように見えます。
魂はもう肉体を離れているのですものね。
でもきっと、まだそのあたりに居るにちがいありません。

チベット語のお経を詠んでも父に分からないのは分かっていますけど
言葉には魔力があると思います。
私にとっては、和訳されたお経よりも
チベット語のお経の方が、力があるように感じるのです。
いつものようにドルズィン・リンポチェのメロディーで
ゆっくりと心をこめて歌いました。

唱えながらときどき父の遺影に目をやると
うれしそうに私の歌を聴いているようでした。
「ほうほう、きれいな曲だな」と
おもしろそうにちょっと口元をゆるめているようにも見えました。

最初は部屋のひんやり感が気になっていましたけれど
だんだん調子が出てきて声が通り、
部屋の中にいるものたちが鎮まっていく気配を感じました。

父に聞かせるため
また、その部屋に漂うすべての有情に聞かせるため
観音菩薩成就法を行じながら
「おんまにぺめふん」をお数珠五巡り
「おんあみでわふりー」をお数珠二巡り
「これでよし」と感じるまで行いました。

私にできる限りのことをして
しっかりとお別れができました。

最後に父とこのような時間を持てて、私は幸せな娘です。

 
 

 
 
 
 


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by prem_ayako | 2017-06-23 21:42 | family | Comments(0)

みとり

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ちょうど2週間前、父が亡くなりました。

6月9日はチベット暦4月(サカダワ=聖なる月)の満月で
父が息を引きとったのは翌10日の昼過ぎ。
ほぼ干潮の時刻でした。

早朝、兄から連絡があり
すぐに仕度して神戸に向かいました。
(大きなJ先生は金沢に出張中)
6時ごろの電車に乗って
病院に着いたのが8時前。

そのとき、父は酸素マスクを顔に当てていましたが
血圧も脈もしっかりして、少しもちなおしているようでした。
兄はすでに勤務先の病院に出勤し、母と義姉がついていました。

呼吸は荒いものの落ち着いていたので、
母も義姉も朝ご飯を食べにいったん帰っていきました。
それで9時半頃からは、私ひとりで付き添うことになりました。

看護師さんたちの出入りの隙をみて
私は父の手を握りながら
小さな声で
千手観音の陀羅尼(なも・らとなとらや~♪)や
極楽誓願偈(えまほ~♪)や
ドルズィン・リンポチェメロディのおんまにぺめふんふりー♪を歌いました。

父はずいぶん耳が遠くなっていたのですが
今から思うとこの時
意識はもう、半分外に出ていて、いつもよりよく聞こえていたのかもしれません。。。
たしかに聴いてくれていたように思います。


主治医の先生は学会でお休みだったので、院長先生が診察に来られました。
刺繍つきの黒の網ストッキングに黒のピンヒール。
目の隈取りばっちりのお化粧の
なかなかにブッ飛んだ、40代半ばの女医さんです。

父の入院しているMリハビリテーション病院は新しい病院で、
古くからのM総合病院がすぐ隣りにあり
院長先生は、両方の責任者を兼ねています。

兄は、かねて主治医から、
リハビリテーション病院では最期まで看られません、
いざとなったらM病院に移ってください、と言われていたそうですが
当の院長にそういうニュアンスはなくて、
「もうこのままここでというご希望だそうですが、よろしいですか?
 あちらの病院に移れば、医学的にはいろいろ出来ることもありますけどね」
と確認してこられました。

私 「ええ、あまりもう濃厚なことは望んでいないので・・・」
院長「お父さまはお医者さんでいらしたそうですね」
私 「はい。父は、人工呼吸と胃瘻だけはしてくれるなと言ってまして」
院長「そうですね。治るものならしてもいいんですけど、そうじゃないですからね。
   もう、しんどいことはしない方がいいですね」

そして、鼻からの経管栄養チューブも抜きましょう、と言ってくださいました。
「もう当分の間、栄養を入れることもないですから。必要になったら、またすぐ入れることができますし」
私 「ああ!そうしてあげてください!日赤で入れたときも迷ったあげくだったんです」
院長「少しでも気持ち悪いものは取ってしまう方がいいです」
血液検査もしなくてよい、と看護師さんに指示されました。「検査は昨日もしたんでしょ?」
看護師さん「いえ、痰の培養だけです」
院長「いいわ。痛いことはやめましょう」

人によっては、このものの言い方ややり方に抵抗があるかもしれません。
でも私は、多くを言わなくてもこちらの意図を理解していただけたのが
ほんとうにありがたかったです。
(後で兄に聞くと、この院長先生は画家でもあるそうで、何枚もの大作が院内に飾ってありました)

おかげで父の体内に入っているのは最小限の管だけ・・・
とてもゆっくりと落ちる抗生剤の点滴と、導尿のチューブだけになりました。
よかった。。。
もうここまできて、無理して命を延ばすことはありません。
少しでも楽に、自然な形で逝ってもらいたいと思いました。


11時半頃でしょうか
ついウトウトとしていて、ハッと目がさめた瞬間、
父の呼吸が止まっているような気がしました。
ぎょっとして手を握って呼びかけたら
少しして、また息を吸い込んだのです。

気のせいだったのか?
ひょっとしたらこのまま逝くところだったのか。。。?

それから見回りに来られた看護師長さんが父を触って
「少し汗ばんでいますね」とエアコンを入れたり
酸素の濃度を上げたりし始めるのを見て
これは近いのかもしれないと思い・・・

午後からのチベット語レッスンをキャンセルする連絡を入れました。
さらに翌日の「中国地方会」にも参加申し込みをしていたのですけど
「無理かもしれません」と、お世話役の方に連絡しました。

その頃にはもう父は、全身で必死になって息をしている様子で、
両目とも、ずっと開いたままになっていました。

午後1時前、脈をとりにきた看護師さんが
固い表情で別の看護師さんを呼んで
その方は「このままいくと心臓の方も止まるかもしれません」
さらに、「呼んだ方がよい方がおられれば」と言われたので
母と兄に連絡しました。
これが1時ちょうど。

次の息はあるのだろうかと、こちらも息を詰めて父をみつめ
長い時間が経ったような気がします。

父はとても善い人なので、善趣に生まれ変わるのは必定です。
父の肩に手を置いて
「(道行きは)大丈夫だからね」と伝えました。

看護師さんが私の背中をさすりながら
「いつも呼ぶとニコニコお返事してくださる方で・・・」と言われました。
そうです。
いつもいつも父はいい人で
どこに居ても尊敬され、愛されていました。

私が父の額をなぜながら「そうやね、そうやね。(今まで)ありがとうね」と言うと、
それまで開きっぱなしだった父の目が閉じました。
たまっていた涙が少し流れ出て
同時に父は最後の息をしました。

私がありがとうを言うのを
待っていてくれたかのようでした。

走ってきた看護師さんに「今モニターで、心臓が止まりました」と言われ、
院長も来られて「ご愁傷さまです」とおっしゃり、
ああ、こういう場面なんだとぼんやり考えながら
「今朝のうちに管を抜いていただいたおかげで、あまり苦しまずに逝けました。
 ほんとうにありがとうございました」とお礼を言いました。

兄に「いま、父が亡くなりました」とメールしたのが1時17分。
急変してからほんの15分ほどと
あっけなかったです。

自分の施設に帰っていた母は知らせを聞いて軽くパニックになり、
車で送ってもらって、2時すぎに到着しました。
「なんであのとき帰ってしまったんだろう!」とずっと悔やんでおります。

でもね・・・
おそらく父は、母に休んでもらいたくて
いったん、もちなおしたのだと思います。
父は母のことを大好きでしたから。

それに、院長との話し合いの場に母がもし居たとしたら
話がもう少し、ややこしくなっていたかもしれません。

父は私ひとりの時を選んで私に判断を任せ、
さらにいつもの主治医でなくて院長を選び
死ぬ時を自分で決めたのだろうなと
これはもう、ほとんど確信しています。

亡くなったのは悲しいですし、
脳梗塞を起こしてからの2ヶ月は寝たきりで可哀相でしたが
最期は、この状況の中で一番よい時を選んで逝ったと思います。

人は主体的に生き
主体的に死ぬことが
本当にできるのだと思います。


冒頭の写真は2013年10月
神戸のホテルオークラで卒寿のお祝いをしたときに撮ったもの。
父も気に入っていたこの写真を、遺影に使いました。

 
 
 

 
 
 

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by prem_ayako | 2017-06-23 21:37 | family | Comments(0)

アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。


by prem_ayako