アードラーの夢

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アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。

カテゴリ:family( 48 )

鴨居の上から

母は、父が亡くなった直後は
死に目に会えなかったことをずっと悔いて泣いていましたが、
孫たちに囲まれて
お通夜の晩とお葬式の日の昼、いっしょに食事をするうちに
だんだんと笑顔が増えてきました。

死者との別れに
こういう時間は、ほんとうに大切ですね。

87歳の母をいたわらなくてはならないということは
言葉に出さずともみんな合意していましたので

母の言うことが少々変であっても誰も否定せず、
黙ってうんうんと聞いておりました。

そうしていると母の話は際限なく脈略なく続くのですが、
後悔や不安の話が出尽くすと
どんなに父がよい夫だったかというプラス面の話になり、
それが何巡もしてまた出尽くすと
ようやく周囲の人々の方に目が向いて
自分以外のあれこれに関心を示すようになりました。


結局、母はさびしかったのかもしれません。
父が老いて
母の尊敬する賢い父でなくなり
母のお喋りを楽しく聴く父でなくなり
母をいたわる優しい父でなくなってしまったから。

母のお喋りを聞いてあげる人が必要だったのですね。。。

今こうやって少し距離をおいて母を眺めると
私はこの小さな老女に
彼女の能力を超えたことを求めていたのだと分かります。

私は未だに母に幻想を抱き
現実以上の母を求めていたようです。
親離れ、出来ていなかった、ということかもしれません。
申しわけなかったです。


神戸市の斎場は、
住吉川上流の山の中腹にあり、
葬儀会館から斎場への送迎バスで
私は母の隣に座っていました。

とりとめもない母の話は問わず語りに続き
なんと、母の早期回想にまで至りました。


小さいころ私ジフテリアか何かで死にかけたことがあったのね
みんながまわりで久子ちゃん久子ちゃんて名前を呼ぶのを
古い家だからお座敷の上に鴨居があるでしょう
あの高いところに私ちょこんとすわってね
みんなが布団のまわりにいるのを上から見ていたの
みんなが久子ちゃん久子ちゃん言うてるのをね
そしたら急にどんっ!と下に
引っぱられたか落ちたかそんな感じがしてね
気がついたら布団の上にもどってたの

私「え~っそれって臨死体験やん」

そうなの
それでぜんぶ見えてたの
お手伝いさんが洗面器にお水を運んできてね
それを私の寝かされてるお布団のすそに
ちょこっとこぼして濡らしたのよ
私それもよくよく見てたから
あんたあそこにお水こぼしたでしょって後で言ったのも覚えてる

「そうか~名前呼んでもらったから生き返ったんやねぇ」

そうよ
あんた、あの時おとうさま呼んでくれた?!

「ああ、呼んだよ。看護師さんも一緒に呼んでくれてたよ」

母を安心させるため咄嗟にウソをつきましたが
本当は、最期のときは呼びませんでした。
小さな子どもが死にそうなら誰もが呼び戻そうとするでしょうが
高齢で病気の父を呼び戻してどうなるというのでしょう。
もう身体は役目を終えたがっているのに。


でも、お葬式が終わり
日常の生活にもどってしばらく経ったある日、
いきなり思い出しました。

父の亡くなったあの日、
11時半ごろに一瞬、父の呼吸が止まったような気がしたとき
私は父の名を呼んで引きとめたのではなかったか?

あのとき私は本能的に
父に生きていてほしいと願いました。
引きとめることがどういうことかなんて考えずに
ただ、私の愛着から父の名を呼んだのです。

父は
ひょっとしたら病室の天井か
カーテンレールの上あたりに座っていたものを
私の願いに応えて
どんっと戻ってきて
もう少しだけ一緒にいてくれたのかもしれません。

あるいは、私がウトウトしている間に逝ってしまっては
かわいそうだと考えて
鴨居の上から呼びかけてくれたのかもしれません。
「ほら目を覚ませよ
 でないとこのままいっちゃうで」って。

そうして、最期の時間を私に与えて
しんどい呼吸をもう少し続けてくれて
思い残すことがないようにしてくれた。

だから「ありがとう」を聞いて
もう逝っていいって思ったんだね。

最期までやさしい父でした。

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上の写真は今年のお正月、息子の結婚式の写真を見ている両親です。
下は昨年10月92歳のお誕生日に、お祝いに行って撮りました。
どちらも父がお世話になった施設の一室です。
ほんとうによくしていただきました。
たくさんの方に助けていただいて父は天寿を全うしたと思います。
みなさま、読んでくださってどうもありがとうございました。





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by prem_ayako | 2017-06-23 21:56 | family | Comments(2)

枕経

葬儀社の方が病院にお迎えに来られたのが10日の午後4時。
この日は友引だったので、
お通夜は11日の日曜日
お葬式は12日の月曜日ということになりました。


日曜は午後の納棺までに神戸に行けばよかったので
朝ゆっくりと自宅で金剛さったの浄化法を行いました。
自分自身をきれいにして父を送りたかったのです。
百字真言を108回唱えると、さすがに少しはきれいになった気がしました。

私は昨年ポワを教わったので
死にゆく人のためにポワを行じるやり方も習っています。
私の行で父を極楽に送ることができれば、本当はいちばん良いのですが・・・
とても、まだそんな力はありません。
父の魂を極楽浄土へという件に関しては
この夏ガルチェン・リンポチェにお会いして、そこでお願いするのが確実と思います。

では私は父のために何ができるか?というと
やはりマニ廻向ではないかな?と思いました。
父には、ターラー菩薩より観音菩薩の方が似合っている気がするのです。

浄土真宗大谷派のお坊さまとはまた別に
私個人で父に詠み聞かせる枕教として
ドルズィン・リンポチェから教わった『観音菩薩成就法』のテキストを持ちました。
そして1泊する用意をして、また神戸に向かいました。

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納棺のとき、
ガルチェン・リンポチェの法会でいただいた
お加持つきの赤いお札と
赤い小さな『極楽誓願』の本とを
父の胸元にすべりこませました。

こうして父とリンポチェとのご縁を結んでおけば、
必ず助けになるはずです。


来生も父は人間に生まれて、再びお医者さんになって
また衆生を助ける仕事に勤しむような気がしますが
そのときにきっと、
次の代のガルチェン・リンポチェにお会いすることができるでしょう!


b0253075_21240018.jpg娘は、子ども2人を旦那さんにあずけて
鳥取から駆けつけてくれました。
(今夜は娘と私とで夜とぎです)
息子もお嫁さんと一緒に、都合をつけて来てくれました。
父も喜んでくれたと思いますし、
私もどれだけ心強かったか!


母と兄一家と息子夫婦がそれぞれの家に帰った後、
夜11時、ひんやりした会場で、
私ひとりで父とまた向き合いました。

父の顔は蝋細工のようで、
もはや知らない人のように見えます。
魂はもう肉体を離れているのですものね。
でもきっと、まだそのあたりに居るにちがいありません。

チベット語のお経を詠んでも父に分からないのは分かっていますけど
言葉には魔力があると思います。
私にとっては、和訳されたお経よりも
チベット語のお経の方が、力があるように感じるのです。
いつものようにドルズィン・リンポチェのメロディーで
ゆっくりと心をこめて歌いました。

唱えながらときどき父の遺影に目をやると
うれしそうに私の歌を聴いているようでした。
「ほうほう、きれいな曲だな」と
おもしろそうにちょっと口元をゆるめているようにも見えました。

最初は部屋のひんやり感が気になっていましたけれど
だんだん調子が出てきて声が通り、
部屋の中にいるものたちが鎮まっていく気配を感じました。

父に聞かせるため
また、その部屋に漂うすべての有情に聞かせるため
観音菩薩成就法を行じながら
「おんまにぺめふん」をお数珠五巡り
「おんあみでわふりー」をお数珠二巡り
「これでよし」と感じるまで行いました。

私にできる限りのことをして
しっかりとお別れができました。

最後に父とこのような時間を持てて、私は幸せな娘です。

 
 

 
 
 
 


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by prem_ayako | 2017-06-23 21:42 | family | Comments(0)

みとり

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ちょうど2週間前、父が亡くなりました。

6月9日はチベット暦4月(サカダワ=聖なる月)の満月で
父が息を引きとったのは翌10日の昼過ぎ。
ほぼ干潮の時刻でした。

早朝、兄から連絡があり
すぐに仕度して神戸に向かいました。
(大きなJ先生は金沢に出張中)
6時ごろの電車に乗って
病院に着いたのが8時前。

そのとき、父は酸素マスクを顔に当てていましたが
血圧も脈もしっかりして、少しもちなおしているようでした。
兄はすでに勤務先の病院に出勤し、母と義姉がついていました。

呼吸は荒いものの落ち着いていたので、
母も義姉も朝ご飯を食べにいったん帰っていきました。
それで9時半頃からは、私ひとりで付き添うことになりました。

看護師さんたちの出入りの隙をみて
私は父の手を握りながら
小さな声で
千手観音の陀羅尼(なも・らとなとらや~♪)や
極楽誓願偈(えまほ~♪)や
ドルズィン・リンポチェメロディのおんまにぺめふんふりー♪を歌いました。

父はずいぶん耳が遠くなっていたのですが
今から思うとこの時
意識はもう、半分外に出ていて、いつもよりよく聞こえていたのかもしれません。。。
たしかに聴いてくれていたように思います。


主治医の先生は学会でお休みだったので、院長先生が診察に来られました。
刺繍つきの黒の網ストッキングに黒のピンヒール。
目の隈取りばっちりのお化粧の
なかなかにブッ飛んだ、40代半ばの女医さんです。

父の入院しているMリハビリテーション病院は新しい病院で、
古くからのM総合病院がすぐ隣りにあり
院長先生は、両方の責任者を兼ねています。

兄は、かねて主治医から、
リハビリテーション病院では最期まで看られません、
いざとなったらM病院に移ってください、と言われていたそうですが
当の院長にそういうニュアンスはなくて、
「もうこのままここでというご希望だそうですが、よろしいですか?
 あちらの病院に移れば、医学的にはいろいろ出来ることもありますけどね」
と確認してこられました。

私 「ええ、あまりもう濃厚なことは望んでいないので・・・」
院長「お父さまはお医者さんでいらしたそうですね」
私 「はい。父は、人工呼吸と胃瘻だけはしてくれるなと言ってまして」
院長「そうですね。治るものならしてもいいんですけど、そうじゃないですからね。
   もう、しんどいことはしない方がいいですね」

そして、鼻からの経管栄養チューブも抜きましょう、と言ってくださいました。
「もう当分の間、栄養を入れることもないですから。必要になったら、またすぐ入れることができますし」
私 「ああ!そうしてあげてください!日赤で入れたときも迷ったあげくだったんです」
院長「少しでも気持ち悪いものは取ってしまう方がいいです」
血液検査もしなくてよい、と看護師さんに指示されました。「検査は昨日もしたんでしょ?」
看護師さん「いえ、痰の培養だけです」
院長「いいわ。痛いことはやめましょう」

人によっては、このものの言い方ややり方に抵抗があるかもしれません。
でも私は、多くを言わなくてもこちらの意図を理解していただけたのが
ほんとうにありがたかったです。
(後で兄に聞くと、この院長先生は画家でもあるそうで、何枚もの大作が院内に飾ってありました)

おかげで父の体内に入っているのは最小限の管だけ・・・
とてもゆっくりと落ちる抗生剤の点滴と、導尿のチューブだけになりました。
よかった。。。
もうここまできて、無理して命を延ばすことはありません。
少しでも楽に、自然な形で逝ってもらいたいと思いました。


11時半頃でしょうか
ついウトウトとしていて、ハッと目がさめた瞬間、
父の呼吸が止まっているような気がしました。
ぎょっとして手を握って呼びかけたら
少しして、また息を吸い込んだのです。

気のせいだったのか?
ひょっとしたらこのまま逝くところだったのか。。。?

それから見回りに来られた看護師長さんが父を触って
「少し汗ばんでいますね」とエアコンを入れたり
酸素の濃度を上げたりし始めるのを見て
これは近いのかもしれないと思い・・・

午後からのチベット語レッスンをキャンセルする連絡を入れました。
さらに翌日の「中国地方会」にも参加申し込みをしていたのですけど
「無理かもしれません」と、お世話役の方に連絡しました。

その頃にはもう父は、全身で必死になって息をしている様子で、
両目とも、ずっと開いたままになっていました。

午後1時前、脈をとりにきた看護師さんが
固い表情で別の看護師さんを呼んで
その方は「このままいくと心臓の方も止まるかもしれません」
さらに、「呼んだ方がよい方がおられれば」と言われたので
母と兄に連絡しました。
これが1時ちょうど。

次の息はあるのだろうかと、こちらも息を詰めて父をみつめ
長い時間が経ったような気がします。

父はとても善い人なので、善趣に生まれ変わるのは必定です。
父の肩に手を置いて
「(道行きは)大丈夫だからね」と伝えました。

看護師さんが私の背中をさすりながら
「いつも呼ぶとニコニコお返事してくださる方で・・・」と言われました。
そうです。
いつもいつも父はいい人で
どこに居ても尊敬され、愛されていました。

私が父の額をなぜながら「そうやね、そうやね。(今まで)ありがとうね」と言うと、
それまで開きっぱなしだった父の目が閉じました。
たまっていた涙が少し流れ出て
同時に父は最後の息をしました。

私がありがとうを言うのを
待っていてくれたかのようでした。

走ってきた看護師さんに「今モニターで、心臓が止まりました」と言われ、
院長も来られて「ご愁傷さまです」とおっしゃり、
ああ、こういう場面なんだとぼんやり考えながら
「今朝のうちに管を抜いていただいたおかげで、あまり苦しまずに逝けました。
 ほんとうにありがとうございました」とお礼を言いました。

兄に「いま、父が亡くなりました」とメールしたのが1時17分。
急変してからほんの15分ほどと
あっけなかったです。

自分の施設に帰っていた母は知らせを聞いて軽くパニックになり、
車で送ってもらって、2時すぎに到着しました。
「なんであのとき帰ってしまったんだろう!」とずっと悔やんでおります。

でもね・・・
おそらく父は、母に休んでもらいたくて
いったん、もちなおしたのだと思います。
父は母のことを大好きでしたから。

それに、院長との話し合いの場に母がもし居たとしたら
話がもう少し、ややこしくなっていたかもしれません。

父は私ひとりの時を選んで私に判断を任せ、
さらにいつもの主治医でなくて院長を選び
死ぬ時を自分で決めたのだろうなと
これはもう、ほとんど確信しています。

亡くなったのは悲しいですし、
脳梗塞を起こしてからの2ヶ月は寝たきりで可哀相でしたが
最期は、この状況の中で一番よい時を選んで逝ったと思います。

人は主体的に生き
主体的に死ぬことが
本当にできるのだと思います。


冒頭の写真は2013年10月
神戸のホテルオークラで卒寿のお祝いをしたときに撮ったもの。
父も気に入っていたこの写真を、遺影に使いました。

 
 
 

 
 
 

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by prem_ayako | 2017-06-23 21:37 | family | Comments(0)

父の転院

母へは、兄から話してもらいました。
兄の方が母から信頼されているからです。

それでも、兄も最初は話し出せず、
翌日にもう一度会いに行って、ようやく話ができたようです。
なんですぐに言わなかったの!?と責められたそうですが(^_^;)

翌週の日曜日に私が病院に行くと
ちょうど母が来ていました。

母は椅子にも座らず父の横に立って、ずっと話しかけていました。
昼間は起こしておかなきゃと考えているようです。

新婚旅行の話をしていました・・・

一緒にあちこち旅行行ったよねえ。
最初はどこ行ったか覚えてる?
伊豆だったよねぇ。
最初の日に泊まった旅館は、ものすごくいい旅館で、
あそこなんていう旅館だったかしら?
○○閣?
(ここで「○○閣!」と父がはっきり繰り返しました)
そうそう、○○閣。覚えてるのねぇ。
お部屋も広くて、お料理も豪華だったねえ。
(父、はっきりうなずきます)
はっきり覚えているのねえ。
それなのに、なんで昨日私の名前を忘れてたの?
今度聞かれたら、ちゃんと久子って言ってねえ。。。

なんて、ずっと語りかけていました。。。


あまりに母が父のところへ通うので、
今度は母の身体が参ってしまうのではないかと
兄が心配していました。


熱も下がり、梗塞も広がっていないので点滴の管は抜けましたが
鼻から入れた栄養の管と導尿の管は抜けません。
先日まで居た施設は、経管栄養の状態では受け入れてもらえず
自分で口から食べられるようになるか、
あるいは胃瘻の状態になるか(!)
でないと戻れないのだそうです。

状態が落ち着いてくると
急性期の患者さんで溢れかえっている日赤病院に
いつまでも居るわけにいかず、

5月16日、倒れてからほぼ1ヶ月で
同じく神戸市内のリハビリテーション病院へ転院となりました。


「リハビリ」という言葉、私はしっくりこないのです。
目標は、自力でものを食べられるようになって
もとの施設に戻れるようになること、というのですが
・・・でもそれって、現実にはどうなの?
92歳の父が、これからリハビリ?

みんな無理だって分かっているのに
父の身体がどこに向かっているか、みんな知っているのに
そこを見て見ぬふりをしているんじゃない?
みんなで申し合わせて
単なる符牒を言ってるだけなんじゃない?

そんなふうにモヤモヤしながらも
私も同じ芝居に加わります。


先日の日曜日、転院先のリハビリ病院に行ってきました。
新しいきれいな病院で、個室も広く、思っていたよりも印象はよかったです。
日赤にいたときは半分閉じたままだった右目も
大きく開くようになっていました。

母もまた来ていました。
父は、いつかの夜中に自分で管を引き抜いてしまったそうで、
誰も来ていない間は、手袋による拘束をされているようです。

あのとき下したひとつの判断が
次々と、父に新たな苦をもたらしているようで
辛いです。

かといって、あの時点で口からものを食べさせていたら、
おそらくは誤飲や誤嚥で、肺炎を起こしていたでしょう。

どうすればよかったのか。
考えても仕方ないのですが。。。


その日の帰り際、久しぶりに父の意識が清明になったようでした。
目に力が戻り、
ベッドを起こしてくれた看護師さんに向かって
にっこり笑って、「ありがとう!」と言いました。
施設にいた頃、「本当に笑顔がすてきですね~!」と
職員さんたちに好かれていた、父の特別の笑顔です。


父の生きているかぎり
父の存在は、灯りとなっている。

そう、生きているだけで灯りなのです。
父の命を灯したり消したりするのは私たちではありません。
私たちが何をどう判断しようとも、
そんな力は人間にはありません。

そう思うと、もう
委ねよう、と思えました。


父の命の続くかぎり、
できるだけ会いに通おうと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
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by prem_ayako | 2017-05-23 21:03 | family | Comments(0)

父の入院

4月半ば、父が脳梗塞で倒れました。

ドルズィン・リンポチェのリトリートが終わって
ようやく心身が日常に戻って、
月末の「かささぎ座」まで、少しひと息つけるな、という時でした。

木曜日のお昼ごろ、ご飯を食べようとしていると
父の入所している施設から携帯に電話がかかってきたんです。
出ると、いつもお世話になっているケアマネージャーさんで、
どうしても兄と連絡がとれない、
今、救急車がきて父を搬送するところだと言います。

すぐに行きます!と答えましたが
うちから神戸まで、2時間はかかります。

電車に乗っている間も、何度かケアマネさんから電話が入り、
神戸の赤十字病院に搬送されたことが分かりました。
母にはまだ連絡していないがどうしたものか?とも尋ねられました。
母がすぐにパニックになることを、父の施設の方たちもよくご存知なので。

母に連絡するのは、私が父の様子を見てからにしてほしいと答えました。

三宮からタクシーで日赤に着いたのは午後2時半ごろ。
施設の看護師さんが付き添って待ってくださっていました。
父は私の呼びかけに、はっきり答えてくれました。

前の晩、施設で、めずらしく食べたものを少しもどしたのだそうです。
それでも吐いたあとはすっきりした様子だったのが、
今朝10時半ごろ、右目の視線の向きがおかしいことに気がついたのだと、
施設の看護師さんが詳しく説明してくださいました。
かかりつけ医に連絡したところ救急受診を勧められ、
緊急入院に至ったということです。
考えうる最も早いタイミングで対処していただけたのだと思います。

ドクターの説明を受けたところ、
脳幹部の脳梗塞を起こしているということでした。

父、大正13年生まれの92歳です。
ついに来るべき時が来たと思いました。

さまざまな検査と
入院手続きの書類。

こういう時にかぎって、なぜか兄と連絡がとれず、
私ひとりですべて行いました。

点滴と
心電図モニターと
血圧計と
脚部の血栓予防の機械につながれた父。

新たな梗塞を起こさない限りは、今すぐ命の危険はなさそうでしたので
その日は夜8時ごろまで付き添って、いったん滋賀の家に帰り
翌日また出直して行きました。


父は、呼びかけると意識はあるものの
眠っていることが多く
言葉も不明瞭になっています。
また、夢を見ているのか、あるいはそこに何か見えるのか、
ときおり宙に手を伸ばしたり、誰かに呼びかけるようにします。

手足の麻痺は幸いないようですが、
身体についた管を無意識に取り除こうとするので
気をつけてやさしく注意しなければなりません。

尿意があるのに立てないので
おむつの中にしなければならず、
それはどうしても出来ないみたいで
しかたなく、そのたびに導尿してもらうのです。

さらに、何も食べていないのに喉がゴロゴロいって
ときどき痰を吸引してもらわなくてはなりません。
口から食べる練習もしましたが、難しいようでした。

倒れるその日まで、自分でトイレに行って、自分で食事をしていたのに。

夕方、主治医に
鼻からの経管栄養と導尿カテーテルの保留を勧められました。

私はどうすればよかったのでしょう。

その場では、いったんお断りしました。
父にとっていちばんよいようにしたいこと
父の意志を確認したいこと
家族と相談してからにしたいこと、などお話しして。

ドクターと看護師さんは、そこで断られるとは思っていなかったようで
すでに器具を用意してきておられましたが、
分かってくださいました。

夜、ようやく連絡がとれて駆けつけた兄と相談しました。

父は「人工呼吸と胃瘻は絶対にやめてくれ」と言っていたことを確認しました。

それでは、経管栄養と導尿はどうするか?
導尿は、してあげないと父が辛いでしょう。
経管栄養は?

たとえば大きなJ先生は、
「自分が口から食べられなくなった時には、もう何もしないでくれ」
とおっしゃっています。
経管栄養どころか点滴だって拒否されるでしょう。

・・・でも父は、そこまで言っていなかったようです。
兄は、ずっとというわけじゃない、
救急期の一時的な措置として、栄養は入れていいんじゃないか?
と言います。

・・・ですが、この年齢で一度入れた管を
いつか取りはずすことができるものでしょうか?

かといって、ここで何も栄養を入れなかったら・・?

結局私は、兄に反対することができませんでした。
あくまで一時的な措置として
と自分を納得させて。

その夜は三宮にホテルをとりました。
やっぱり大津~神戸の往復は大変です。

翌日、父が倒れて3日目、
鼻からの管とおしっこの管が入れられました。
それらの管を触らせないように、父の手に大きな手袋がはめられました。

父は手袋を厭がり、
私と目が合うと「取って」と訴えかけます。
「これはね、はめとかなきゃいけないんだよ」と言うのですが
辛いです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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by prem_ayako | 2017-05-23 20:57 | family | Comments(0)

おさんぽしゅんすけ

先週末にあった基礎講座応用編後半にも、
娘としゅんすけはやって来ました!

今回は、金曜の午後、私が神戸まで出て待ち合わせ、
いっしょに父の施設と母の施設へ行きました。
ふたりとも孫と曾孫に会うのはお正月以来なので、とても喜んでくれました。
これぐらいの小さな子どもって、
ほんとにお年寄りを癒やす力がありますね~

土日はまるで春のような暖かさで
お天気も良かったので
しゅんすけと、たっぷり外で遊びました♪

朝、大きなJ先生と娘が「行ってきまぁす」と出かけるときだけ、
しゅんすけはちょっと泣き顔になります(^^)
でも、抱き上げていっしょにお見送りをしたり
好きなものを食べさせたりしていたら
すぐに切り替えて機嫌を直してくれます。

朝ごはんの片付けを終えて、
「さっ、しゅんすけ、お外へ行こうか?」と声をかけると
しゅんすけ、ぱっと顔を輝かせて
「たーた、たーた」と自分のくつ下を探して持ってきます。

はかせてあげると、そのまま玄関扉まで突進します。
「おくつ、はこうね~」
でも足の指を曲げるので、履かせにくい・・・
ちゃんと履けているのかどうかよくわからない・・・

しゅんすけ、気がはやっています(^^;)
(う~ん、仔犬みたい♪)
外の階段で抱っこすると、行きたい方を指さし
「あっち」と明確に指示を出してくれます。

「よし、あっちへ行こう。おんりして歩こうね」
手をつないで、川沿いの道をゆっくりゆっくり歩きました。

犬がいると、しゅんすけはキュッと緊張します。
行き交う方々が、けっこう声をかけてくださるのですが
そのたびに固くなって立ち止まってしまいます(^^)
人見知りというやつですな。

ときどき抱っこしたり、また歩いてもらったりしながら
ちょうど琵琶湖から瀬田川が流れ出るところ、「なぎさ公園」まで来ました。
そこでしゅんすけの選んだベンチに座って、の~んびり過ごしました。

いいお天気の土曜日なので
ジョギングのお兄さん、
筋トレのおじさん、
ロードバイクの父子、
コマなし自転車の練習をする家族連れ
いろんな人が行き過ぎていきます。

私は輝く湖面を眺め
ユリカモメやカイツブリを眺め
春になって動きだした遊覧船を眺め

しゅんすけはおとなしくおすわりして
自転車やよその子どもをぼーっと見ています。

たくさん歩いて疲れたのかな?
もってきたお水を飲ませて「バナナ食べる?」と出してみせると
「バナナ!」とかぶりつきました。

b0253075_1143584.jpg食べ終わると、自分のくつの点検(笑)
それからベンチの点検・・・

そのうちベンチから降りて
ちょっとずつ周りを探索し始めました。

この程度までこの場に慣れるのに
30分ぐらいかかってるんじゃないかな。
私もよく待ったもんです。
忙しいお母さん時代だったら、間違いなく帰っていたと思います。。。

ベンチの脚を点検・・・
おっ、これは何だ?
b0253075_11451257.jpg


b0253075_11474731.jpgしゅんすけくんの影なんですけど
不思議だねえ

そのうち、広い公園をぐるぐる歩き出して
足元の石を調べたり
水辺をのぞきこんだり
やわらかい芝生の起伏を楽しんだりしました。

b0253075_1154441.jpgいっぱい歩いたので、帰りはずっと抱っこ。
帰ったら、待ったなしに「まんま!まんま!」
あぁ思い出したぞ。
お母さんは、かくも大変だってこと(>_<)


昼ごはんの片付けをしていると
また外へ行きたいということなのでしょう、
「たーた、たーた」と言って
玄関の自分のくつを一生懸命かかえて
台所にいる私のところへ、よいしょと持ってきました。
あらま。

「ちょっと待っててね」と言うと
文字どおり、そこで待っていてくれるのですが(^^;)
かなりのプレッシャーを感じます。
それに、くつねぇ。
「あのぉ、そのおくつ、玄関に置いてきてもらえますか?」
と疑問形のお願い口調で頼んでみたのですが、
残念ながら、共同の課題にはしてもらえませんでした。。。


片付けを済ませてまた外へ。
少し眠たそうなので、あまり遠出はせず
(だって帰り道に抱っこするの大変ですもん)
家のすぐ前のベンチにすわって、カモさんやボートを眺めました。
しゅんすけはご機嫌で
またベンチの構造を調べたり、お歌を歌ったりしていました。

なんということもないお散歩でしたが
しゅんすけ、すごく楽しかったみたいで
娘が帰ってきてもテンションが上がっていて
寝かせつけるのが大変だったようです。


翌日曜日は、暖かいけれども曇り空。
夕方までに荷造りして新大阪に連れて行かねばならないので
午前中に、またお散歩しました。

今度は瀬田川沿いに南の方へ向かい、唐橋の手前あたりまで歩きました。
しゅんすけ、私と歩くことにもすっかり慣れて
川沿いの草の生えた道を、とことことことこ歩きます。

ある程度歩くと「とん!」と言ってベンチに座り
しばらくするとまた「あっち!」と言って歩き
また「とん!」と言って別のベンチに座り
の繰り返し(^^)
川沿いを行きつ戻りつして遊びました。

いちど、大きなハシボソガラスが目の前に舞い降りてきて
大きな声で「かあーかあーかあー」と鳴きました。
しゅんすけも私も、じっと目をこらして烏の動きを追いました。
烏が飛んでいってしまってから
「しゅんすけ、大きなカラスだったねえ。
 かあーかあーかあーっていったねえ」と話しかけると、
まるで大人のように
「ったねえ!!」とお返事してくれました。
(^o^)会話、できたねえ!


b0253075_11565053.jpg  このように至福の2日間はあっという間に過ぎ去り
  夕方に新大阪の会場へしゅんすけを連れて行くと
  娘の抱っこひもの中にすっぽりとおさまって、
  J先生やみんなに愛想をふりまきながら
  バイバイして行ってしまったのでした(;_;)

  あとに残ったのは、
  しゅんすけの気配だけが残るおうちと
  私の腕の筋肉痛・・・
  なのでした(T_T)


孫は来てよし往(い)んでよし
と言いますが、たしかに
まるまる1人でずっとおもりするのは、2日が限度かも。

これで、こうすけは3歳のとき2日×2回(娘の理論編受講時)
しゅんすけは1歳半で、2日×2回(同じく応用編受講時)、
濃密に私とお付き合いしたことになります。

娘はしっかりアドラー心理学のお勉強ができたみたいですし
私の方は、こうすけ・しゅんすけと仲良くなれるし
こんなふうにときどき預かると、みんながハッピー。
とっても嬉しいです。
 
 
 
 
 
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by prem_ayako | 2016-03-13 11:59 | family | Comments(0)

スィートしゅんすけ

娘としゅんすけがやって来た金曜日の夜は
岡山からいただいたお大根を大きなJ先生が炊いてくださって(美味!)
しゅんすけご機嫌で、平和な夜がすぎました。
娘には忘れないよう、翌日の応用編の受付を頼みました。
家内産業です(笑)

土曜日、しゅんすけの朝ご飯の最中に
さりげなくJ先生と娘は出かけて行きました。。。
さぁ今から夕方6時すぎまで、おばあちゃまと2人だよ~


b0253075_073092.jpgしゅんすけは右手にしっかりとスプーンを握りしめ、
あいた方の手で(^o^)パンやチーズをつかんでお口に運びます。

ほとんど1人で食べてくれますが
ほっておくとどんどんつめこんでオエッとなってしまうので
少しずつ、お皿に置いてあげます。

すごい勢いで食べて、すぐに「ん」と指さして次を要求します。
「もうちょっともぐもぐしてからにしようね」
「ん!」
「そぉ?大丈夫かな・・・はい、どうぞ」
・・・ぱくぱくぱく「ん!」
「早いね・・・はい、どうぞ」
・・・ぱくぱくぱく「ん!」
「もぐもぐ、もぐもぐは?」
「ん!ん!ん!ちーじゅ!」
「あ、チーズね、はいどうぞ」
幸せそうに手にとって「ちーじゅー・・・」とうっとりしています。
きゃ、きゃわいい(>_<)

あらかたお腹が満ちてくると、ご機嫌にお話ししてくれます。
飾ってある写真を指さして「ん?」と尋ねるので
「それはダライラマ法王だよ~」(変な家かも?)
並べてある小物を指さして「ん?」「ん?」
「それは何かな~ランプでしょ、お薬のびんでしょ・・」
出窓の植木鉢をさして「ぱっぱ?」
「そう、はっぱだね~」
「ぱっぱー!」

それからもっともっとご機嫌がよくなると、突然
「ちゃ、ちゃ、ちゃ ちゃ、ちゃ、ちゃ」と歌い出しました。
おお、その音階は!?
ひょっとして、こうすけお兄ちゃんがピアノで練習している
『アビニヨンの橋の上で』ではないでしょうか?
ためしに歌ってみると、当たりだったようで、大喜び。
いっしょに「ちゃちゃちゃ、ちゃちゃちゃ、ちゃーちゃちゃちゃ、ちゃーちゃちゃちゃ」
と歌いました♪

しゅんすけのお歌、
かわいくて萌え死にしそうです~~

b0253075_0155664.jpg
こうやってゆっくりご飯を食べ終わって
「おてて洗いにいこうか?」と言ってみると
「ん!」と抱っこを要求します。
ハイチェアーから抱き上げて洗面所で
小さな手を洗って拭いてあげました。

戻ってきて「おむつ替えようか?」と聞いてみると
「メ○ーズパンツタイプ」の袋を置いている場所まで
私を引っぱってってくれました(笑)
しかも袋から1枚取り出して、渡してくれます(笑)
はいはい、これはラクだわ(^^)


それからまた抱っこを要求され、おうちの中の探検に出かけました。
ひとりで歩いて探検するのは、まだちょっと恐いのかもしれません。
b0253075_9121445.jpg特に気に入ったのは私の寝室だったみたいで
ベッド横の窓から外の川を飽きずに見ています。

ずっと立って抱っこしているのもしんどいので
出窓に飾ったリンポチェのお写真や仏具に移動していただいて
そこにしゅんすけを座らせました。
「ほら、鳥さんいるよ」
「がぁが・・・」
「そう、がぁがぁだね。あ、ボートだ。お舟だよ」
いっしょうけんめい見ています。


娘は「おばあちゃまといっしょにいてね」とお話ししていたようですが
ちゃんと分かっているのかなあ。
お母さんがいないことについて、全く大丈夫なようです。

結果、一度も
ほんとうに一度も泣かずに
2日間、彼はご機嫌に過ごしてくれたのでした。
なんて協力的なんでしょう!

b0253075_0152870.jpg

パソコンやオーディオや
あちこち戸棚の引き出しを
もちろんしゅんすけは触りに行きました。

お兄ちゃんそっくりないたずら顔です!


でも対策はたててありますから、
注目しないで傍のソファーで本を読んでいたら

いつの間にか遊び疲れて眠っていました。
おおお♪♪ たまりませんなぁ。。。


b0253075_0131568.jpg

ばばバカにお付き合いいただき、ありがとうございましたm(_ _)m

b0253075_0193397.jpgまた来週も来るからね! by しゅんすけ♪

  <追記>
   大きなJ先生が一読され、
   「ばばバカすぎて涙が出るぅ~」と
   言われてしまいましたっ (^^;)

   ちょっとだけ反省して
   後日、パセージ的にどう対応したのか、などなど
   あらためて書かせていただきます(^^)
       
      
      
      
      
       
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by prem_ayako | 2016-02-29 09:13 | family | Comments(2)

しゅんすけがやってくる

2月から3月にかけて、新大阪で基礎講座応用編を開催中ですが、
この応用編を鳥取に住む娘も受講したいと希望してきました。

娘は、理論編の方は、こうすけが3歳になってすぐに受講しています。
そのとき、私はこうすけのおもりを引き受けて
彼と大阪のあちこちにお出かけしたのでした。
その時のことはここにも書きましたが
私にとってもこうすけにとっても(^^)しあわせな思い出です。


娘が講座に参加して勉強するためには、まわりの協力が必要です。
私ひとりで子ども2人をみるのはちょっと大変なので
5歳のこうすけは、残っておうちでお父さんと過ごしてもらうことになりました。
1歳半のしゅんすけは、今度はこの滋賀のお家で、私が面倒をみるのです。
ええ、ええ、協力しますともっ♪


ただ、しゅんすけにとっては
自分のおうち以外でお母さんと離れるなんて、生まれてはじめての体験です。
これは大冒険であります。

寒い時期だから、あまり外で遊ばせられないし
それにまだ、外歩きはヨチヨチであぶなっかしいです。
しゅんすけはこうすけほど私に慣れていませんし
3歳のこうすけを連れ回したときとは、勝手が違います。

しゅんすけもかなり長時間泣き続ける力があるので(^^;)
下手をするとお母さんが帰ってくるまで
1日中泣き続けることになるやもしれません。

まぁそうなったらそうなったで泣かせ続けるしかないよね、と
娘も私もハラはくくっているのですが

子どもって、陰性感情にとらわれるとどんどんエスカレートしていくから
(あ、これは大人も同じか ^_^;)
彼にとって慣れないおうちだから、危険なこともあるかもね。。。

ともかく、しゅんすけさんをお迎えするために
できるだけ環境を整えることにしました!


お正月に来たとき、しゅんすけはあやうく
大きなJ先生のパソコンをダメにするところでした。

はじめ、オーディオの電源スイッチを触り始めたころは
大きなJ先生も「まあ大丈夫でしょう」と静観しておられたのですが、
そのうち連続してオンオフし始めて
しかもオーディオから移動してパソコンの電源までもオンオフしだして・・・
「おっとそれは」と思ったときはもう遅く、
とりあえずコンセントを抜いて対応しましたが
彼が夜寝た後、復旧するのに、相当、時間がかかりましたm(_ _)m

ボタンを押すのが大好きなお年頃なんです~
しかも、押したら光ったり色が変わったりすると
もう夢中です。。。
まぁその気持ちもわかります。

これらの経験から学びましたので
オーディオもパソコンも
もとのコンセントから、電源を抜いておくことにしました。
スピーカーにはちゃんとネットをかぶせておきます。
触ってほしくない細々としたものは、すべて手の届かないところに上げました。
(1歳半ですからね。
 椅子を持ってきてそれに乗って触るという知恵は、まだありません(^_-)


お昼ご飯は、私としゅんすけと2人きりになりますので、
しゅんすけの好きなもの。これ大事!

事前に娘にリサーチしました。
少しアトピーがあるので
牛乳、牛肉、ヨーグルトは食べられません。
バターは大丈夫です。
好きなものは、チーズ、バナナ、パン、
にんじん、トマト、ブロッコリー、ほうれん草、とうもろこし。
じゃがいも、さつまいも♪
お魚も大好き。

応用編の前日の金曜日までに
大量の食材を買い込んで
もちろん草津でお気に入りの食パンもゲットして
準備完了です!

さぁ、いつでもいらっしゃ~い(^o^)
          
           
            
            
             
               
                 
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by prem_ayako | 2016-02-29 00:03 | family | Comments(0)

Family Bond

年末から年始にかけて
この家にも、いろんなお客さんがいらっしゃいました。

大晦日には、大きなJ先生の娘さんたちが来てくれました。
よく食べ、よく喋り、数時間過ごして
お正月をお母さん(先生の元妻さん)の家で過ごすべく帰っていかれました。

年始には、J先生の姪の、新婚のMちゃんが
旦那さんといっしょに来てくれました。

同じ日、娘が孫2人を連れてやってきました。
娘とMちゃんとは初対面だったのですが
すっかり意気投合したみたいで、メルアド交換までしていました。

彼女たちは2人して、自分たちの関係は何なんだろう?
と首をひねっていました。
血はつながってないけど
いとこ?はとこ?
親類が離婚したり結婚したりすると、ややこしいよね
って(^^;)


娘はそれから3泊したので、
来客用に整えてあったわが家も、
あっという間に孫っちくんたちに荒らされてしまいましたが(笑)

b0253075_1063094.jpgJ先生とこうすけはラブラブの仲良しなので
ふたりでスーパーへ買い物に行ったり
川へ釣りの練習に行ったりして
男同士の時間を堪能していたようでした。

私と娘は、家の中で床暖房をつけてぬくぬく。
しゅんすけのお守りをしながら
女同士(+しゅんすけ)の時間を堪能しました。

娘一家は、年末から大移動をしてきていて
まず、旦那さんの実家の香川に行って4泊。
年明けに神戸の父親(私の元夫さん)の家に移動して1泊。
その際、元夫方の祖父母の家へ挨拶に行って、
私の両親のそれぞれの施設へも寄ってくれて

その後、旦那さんは車で鳥取に戻ってお仕事。
娘たちは電車で滋賀まで来たのです。

「いろんな家に行ったけど
 お母さんの家がいちばん落ち着く
 J先生と2人でいても全然緊張しないし」
と娘は言います。

b0253075_1093849.jpg 不思議なものですね。
 家族って何なんでしょう?

 血がつながっているから気が合うとか
 血がつながっていないから気が合わないとか
 そういうことではないんだなぁ、と
 だんだん思うようになりました。

私は11年前離婚したとき
家族を失ったと思いました。

子どもたちとの血のつながりは切れませんが
名前は変わりますし、法律上の親でなくなりますから、
「家族」でなくなってしまったように、考えていました。

でも、そうではなかったようです。

家族は、血のつながりでもないし
法律の上のことでもないし
また、一緒に暮らしているかどうかで
決まるものでもないようです。

あえて言うなら、絆 bond ・・・
つながり続けたい!という意志が形になったものを
家族と呼ぶのかもしれません。


離婚して元夫と家族であることに
自分の意志で終止符をうったとき、
実は子どもたちとは家族のままであったのに
勇気がくじかれていて、そうは思えなかったみたいです。

そうではなく
子どもたちにとって私はずっと家族だったし
私にとっても子どもたちはずっと家族だったのです。
何も失ってはいなかったのです。


家系図は、基本、下にいくほど広がりますよね。

父や母の代はやがて消えますが
子どもたちが結婚すれば、その家の方たち同士がまたつながり
家族は増殖していきます。

この絆を大事にしよう。
家族だけでなく
師弟関係も、友だち関係も
縁あって出会った人たち。
自ら決断して断ち切らない限り、
絆が切れることはありません。

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by prem_ayako | 2016-01-23 10:18 | family | Comments(2)

空と水

大津への引っ越しが完了しました。

前の記事を書いた時点では、
母の入所はまだ決まっていなかったのですが、
10月25日に施設から部屋が空いたという連絡があって
兄が速、入居を決め、
10月30日に、母はあわただしく出ていきました。
すばやいです(@_@)

ミニキッチンつきの広い部屋で、母はご機嫌で暮らしています。
父の施設まで歩いて行ける近さなので、
今までよりは頻繁に、父に会いに行ってくれるのではないかしら?

というわけで私は、
後顧の憂いなく、神戸を後にすることができました。
いつもながら絶妙のタイミングでありました。


これから私が生きていく土地は
滋賀県大津市の、中心部からはだいぶ離れた
瀬田川のほとりのマンションです。

2階なのでちょうど目の高さに、
玄関のサクラの色づいた葉が見えます。
腰をおろせば雲の流れる空が、
立ち上がれば対岸の紅葉とそれを映す川面、
浮かぶ小ガモやユリカモメの乱舞が見えます。

ときどきJRや国道の音が聞こえてきますが
それらはただ流れていく音。
私に直接呼びかける声ではありません。

この家にいると、守られていると感じます。
あぁ実家にいる間、私は落ちつけなかったんだなぁ。。。

b0253075_21325685.jpg


振り返れば私はずっと、
窓から外を眺めて
いろんなことを感じ考えて
生きてきました。

早期回想に、その頃の実家の2階の窓から外を眺めて・・・
というものが2つも3つもあります。
基本、わりと病弱で内向的でしたから
窓を通して眺める外の世界が大切だったのかもしれません。

アドラーの自助グループを始めた時に住んでいた
神戸のマンションの8階からの眺めは、本当に素晴らしかった!
晴れた日には、遠く泉州沖まで見渡せたし、
雷雲が海の向こうからこちらへ迫ってくるスペクタクルも見えたものです。

離婚後5年半住んだ大阪のマンションも
上町台地のてっぺんに建つ10階だったので、
眼下の公園のクスノキやサクラ、
そして遠くに連なる生駒山系が美しかったです。


・・・ところがここ1年半、
実家の窓ガラスは全部すりガラスだったし
前が車道だったので閉めきることが多く、
外の景観が全く見えませんでした。

小さい頃と違って毎日のように出かけていましたし、
それなりに暮らしやすいように工夫していましたが、

私はなんだか、窮屈で
小さくなってしぼんでいたように思います。

自分の育った土地だからといって
自分の両親の傍だからといって
くつろいで暮らせるかというと、
それはまた別のものなのかもしれませんね。。。

いくらお金をかけて快適にしつらえても
光が足りないというか
空気が足りないというか
今から思うと、苦しかった。

今になってこんなふうに思うのは、
このおうちに来て
ほんとうに久しぶりに、
胸に息が入る!と感じたからです。

ここは、すぐそこにきれいな水が流れています。
光が移り
風が通り
この土地の「気」に、癒やされています。

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by prem_ayako | 2015-11-14 21:42 | family | Comments(4)

アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。


by prem_ayako