アードラーの夢

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赤い龍の谷

 ジクメは、父と2人で黒い湖のそばに住んでいた。母はジクメを生むとすぐに亡くなったので、父はこの湖の岸でヤクの乳を飲ませてジクメを育てた。ときおり夏に遊牧民がくる以外、野生の鹿や鳥、そして飼っている羊やヤクのほかに住むものはいない。

 ある春の夜、家の外で父を呼ぶ大きな声がした。聞き覚えのある声の男が表に来ていて、何か差し迫った話があるらしかった。「お願いだ・・・」「・・・だがあの子はまだ・・・」「でも娘が・・・」しばらくくぐもった話し声が続いて、最後に父が「わかった」と言うと、男の去って行く足音がした。

 家に戻った父はしばらく火を見つめていた。その間、ジクメは毛布の下で息をひそめて待っていた。おそろしいことが起こる予感がして、押さえようとしても身体が震えた。「ジクメ」とうとう父が言った。「起きているんだろう。こっちへおいで。」ジクメは毛布から這いだして、父の前に立った。「ジクメ」ジクメの両肩に手を置いて、父はもう一度名を呼んだ。「お前の名はジクメ。『恐れを知らぬ者』だ。この名をもつ者は、同じ年まわりの者が助けを求めたら、命を賭しても助けに行かねばならない。それは知っているな?」
 ジクメは口がカラカラに渇いて返事ができなかった。
「さっき来たのは牛飼いのノマだ。娘のデキが赤い龍にさらわれたという。デキはお前と同じ戌年の生まれだそうだ。わかるね?
「お前はまだ11歳だ。父さんはつらい。だが断ったら、お前は一生意気地なしと呼ばれる。それもつらかろう」
 ジクメはかろうじてうなずいた。
「では明日、夜明け前に発つんだ。赤い龍からデキを取り返してこい」

 夜明け、ジクメは言われたとおり身支度をして戸口にいた。父はノマから預かったデキの守り紐をジクメの腰にくくりつけた。「これがお前を導いてくれるはずだ。」かみしめ続けたジクメの唇はついに切れて、血の味がした。

 ジクメの家は黒い湖の西の山すそにあった。湖は四方を山に囲まれており、なだらかな斜面には牧草が豊かに育ち、さらに一帯をセンゲ川が潤している。南の聖なる山々は険しくて、岩肌に残る雪は、そのときどきでさまざまな動物に形を変えた。対岸の東の山の向こうには都があり、さらに向こうには父と母の故郷があると聞いていた。
 夜明けの湖は不気味な黒い鏡のようだった。昼間は透明に澄んでいる水も、今はとろりとぬめって、重たくまとわりつくように見えた。たくさんの水鳥が、まだまるくなって眠っていた。岸のジクメの足跡は、砂とともにさらさら崩れてゆく。風がジクメの背中を押したが、ジクメの足はのろかった。
 前に見える北の山は、ねじくれた灌木におおわれた低い山で、今はとげを生やした巨大な動物がうずくまっているように見えた。赤い龍は、あの山の向こうの谷に住むと言われている。だが、龍の実際の姿を見た者はいないし、一匹だけなのかたくさんいるのかもわからなかった。

 センゲ川を越えると湖から離れ、北の山が近づいてきた。と、ふもとの灌木の中で人影が動いた。「誰?」腰の短剣に手をやりジクメは叫んだ。振り向いて顔を出したのは見たことのない少年だった。長くのばした髪を頭の上で無造作に束ねている。木の実を摘んでいたのか、編んだかごを腰に結わえている。
「お前こそ何だ? そうカリカリするなよ。俺はドゥワン。ぼっとしてないでこの実を植えるのを手伝ってくれ」
「ドゥワン・・・。僕はジクメ。何を植えてるの?」
「天人の成る木さ」
「て、天人の成る木?」
「そうさ。この山の木はみんなそうだよ。みんなねじくれて背が低いだろ? 育った天人が上でらっぱを吹くからどうしてもこうなるんだよ」
「・・・」
「でも天人のためには、こういう山もいくつかは必要だよね。あれ? 知らなかったの? ずいぶん世間知らずだなあ」
「父さんは教えてくれなかったもの」ジクメは若者のかごをのぞいてみた。少し大きめのドングリに似た実がたくさん入っていた。
「あまり深く植えないでね。天人の翼が開きにくくなっちゃうから」
ドゥワンの指示に従って、ジクメは午後おそくまで実を植えるのを手伝った。

「ありがとう。ところでジクメはどこへ行くの?」
「僕は・・・この山の向こう」
「向こう?」
「赤い龍にとらわれたデキという女の子を助け出さなくちゃならないんだ」
「おや。そんな仕事があるんだ。ご苦労さま」
「仕事じゃないよ。ただ、しなきゃならないんだよ」
「だから仕事なんじゃないか」
「・・・そうなのかな」
「そうさ。じゃ足を止めて悪かったね」
「いいよ・・・どうせあんまりしたくない仕事だもの」
 ドゥワンは薄い色の目でジクメを見て言った。「でもしなきゃいけないんだろ? その子のために」
「・・・そうさ。だけど僕はその子の顔も知らないし、うまくいくかどうかも分からない」
 ドゥワンは急に目をきらきらさせて言った。「いい仕事だなあ! よし、手伝ってもらったお礼に、いっしょに行ってやるよ」
「え、ほんとに?」
「ああ! どうせ山のこっち側は植えつくしちまった。俺も新しい土地を開拓しないとな。行こうぜ!」

 2人は灌木の斜面を難なく登っていった。尾根まで上ると、ジクメが見たことのない景色が広がった。背後には、ジクメの見慣れた黒い湖とまわりの山々。目の前にあるのは、いくつもの谷と、重なりあったなだらかな山々で、その中にひとつ、とても奇妙な谷間があった。もう暮れかかっているのに、その一角だけは明るく輝いて眩しいばかりだった。たくさんの星をその谷間に集めて投げ捨てたようにも見えた。
「あれ何?」
「分からない・・・前にはなかったと思うんだけど、おかしいなあ」
 その一角は何かが絶えず蠢いているように見え、それは巨大なひとつの生き物が息づいていのか、あるいは小さな生き物が大勢で這い回っているのか、ここからでは分からなかった。
「あれ・・・ひょっとして赤い龍?」
「うーん、そうかも。そうでないかも。分からないなあ。ともかく朝になるまで待ってでかけようぜ」

 その晩はねじ曲がった天人の木の下で野宿した。朝は天人のらっぱの音に起こされたと何度もドゥワンは主張したが、残念ながらジクメには聞こえなかった。

 斜面の反対側を下り、昨夜見た奇妙な谷間に向かって歩いていくと、ひとつ小さな建物が見えてきた。それはヤクの糞を固めて作ったジクメの家とも、遊牧民のテントとも全く違った、灰色の四角い小屋のようだった。その小屋の壁の真っ黒の穴のような戸口から、カーキ色の服を着た人間が出てくるのが見えた。服の襟には赤い星の飾りがついていた。その男は口元に笑みを浮かべながら、ゆっくりと2人に向かって歩いてきて、近づくとジクメの知らない言葉で何か言った。「なんだって?」ジクメはドゥワンに尋ねた。ドゥワンは黙って男を見ている。男はまだ笑いながら、もう一度何か言った。「何?」ジクメが叫ぶと男はそのままの表情で腰のホルダーに右手をのばした。よく見ると左手にずっと握っているのは太い棍棒だった。

 轟音が響いた。足下の砂がえぐれた。

「逃げろ!」ジクメとドゥワンはやみくもに走った。走って走って息がきれてもまだ走って、もう大丈夫というところまで走って、疲れ切って止まった。すでに湖は見えず、天人の林も見えない。ふたりはどこかの山に迷い込んでしまったのだ。「だからこんな仕事したくなかったんだ!」ジクメはドゥワンの胸をつかんで泣いた。

 ドゥワンは呆けたようにジクメをかかえていたが、やがて身を離して聞いた。「怖いのかい?」
「そりゃそうさ!君は怖くないのか?」
「怖かったさ。というか、びっくりした。怖くなったのは、その後だ。でももう終わった」
「終わってない。もう二度と、あんな目にあいたくない!」
「でもさっきのは終わった」
 ジクメは少し考えてみた。「そうかもしれない。どっちみち、今ここにあいつはいない。・・・これからどうしよう」
「どうするかはもう決まってる。その子を助けに行くんだろ」
「でも」
「その仕事は、あいつがいてもいなくてもできるところまでやんなきゃなんないんだろ」
「・・・そうだ。でもどうやって」
「考えるさ。大事なのは、じっとしてても何も起こらないってことだ」
 ドゥワンは立ち上がって歩き出した。
「どっちへ行けばいいかわかるの?」ジクメが聞くと、「上だ。山の上に出たらまわりが見える」

 小高い頂に上ると、たしかにまわりの様子が分かった。2人はあの奇妙な谷間を見下ろすいちばん近い山に、裏側から上ってきたらしかった。急斜面の岩肌にはいくつも穴があいていたので、2人は手近な洞穴に入りこんで谷のようすを観察した。近くで見ると龍は、あの灰色の小屋の大きいのや小さいのが無限に連なっているようだった。小屋の間をカーキ色の服を着た人間が蠢いている。それがみな襟に星をつけ、口元に笑みをうかべて、棍棒を手に歩いているのだった。ジクメはぐったりと洞穴の壁にもたれかかって呟いた。「だめだ。あいつがいっぱいいる」

「そうでもないかもよ」
 誰もいないと思っていた暗い奥からいきなり声がしたので、2人は飛び上がった。
「あら、驚かせたかしら。でも実はあんたたちの方が私の家に侵入してるのよ」
 幾才ぐらいか、ぴったりとした派手なピンク色のワンピースを着た大柄な女が立っていた。ジクメはあわてて立ち上がった。「ごめんなさい!ここは・・・?」
 女は愛想良く答えた。「あんたのもたれてた壁ね、そこは私の大切な香水置き場。だいぶコレクションを倒してくれたようね」
 気がつくと、ジクメの父が作ってくれた皮の上着に、なんともいえない濃く甘いにおいがしみついていた。「くさっ」ドゥワンが鼻をおさえて叫んだ。
「失礼ね。ミツコって高いのよ。まあいいわ。さっきから聞いてたんだけど、あんたたち、あそこへ行きたいの?」
 2人は同時に答えた。「はいっ!」
「調子いいわね。そうね、あんたたちかわいいから、いいこと教えてあげる。あの町に入るにはちょっとしたコツがいるのよ。あんたたち、何を持ってる?」
「?」
「あの町に行かなくちゃいけないことを示す大切な何かよ」女はいらいらしたふうに繰り返した。
「町・・・って言うんですか、あれ」
「そうよ。なんだ何も持ってないの?」
「あの、こういうものだったら・・・」ジクメは腰からデキの守り紐を解いて女に見せた。
「あ、これでいいわ。ありがと。じゃぁ、よく聞いてね。町へ入るのは簡単なの。自分で考えなさい」
「えーっ!そんなのありですか!」2人は同時に叫んだ。「その紐とっといてその答えはないでしょう!」
「うるさいわね。じゃ、その棚にある瓶、どれでもひとつ持ってっていいわ」
 2人は顔を見合わせた。「おい、どうする」「いらねえよ、こんなくせえもの」「だけどいらないなんて言ったら、あのおばさん怒るよ」「今だってじゅうぶん怖いぜ」
「ちょっとあんたたち何ぶつぶつ言ってんの。早く1本もって出てってちょうだい!」
 ほら怒らせた・・・と、ジクメは手元にあったガラス瓶を1本ふところに突っ込んで、あわてて外に出た。

「あっ!」足を踏み出したところに地面はなくて、体が宙に浮いた。「ジクメ!」後ろでドゥワンの叫ぶのが聞こえた。ああ、終わりだ。あの龍の町の真ん中へ、たったひとりで落ちていく・・・。
「大丈夫」耳元で声がした。「私たちが支えててあげるわ。」薄い衣をまとった小さな手がいくつも、ジクメの体を下から支えている気がした。それとも耳元を切る風の音だったのか。いや、竜だ。故郷の南の山の残雪の、白い竜がジクメを乗せて、真っ青な空をどこまでも飛んでいくようだった。

 気がつくと、ジクメはさっきの山の斜面に横たわっていた。そばにドゥワンが座ってジクメを見守っていた。「けがはないね。ものすごく強い風にあおられて、この木の上にそろりと落ちたんだ。びっくりしたよ。ジクメは運がいいな」
「いや、そうじゃない」ジクメは首を振って起きあがった。「天人が助けてくれたんだ」
「あいつら、いい仕事するなぁ」ドゥワンは心からうれしそうに言った。「・・・でもお前まだくさいぜ」

 2人は下の町に入る作戦を練った。洞窟の女は入るのは簡単だと言ったが、カーキ色の人間が何を言っているのか、ジクメたちには分からない。
「適当に答えとこうぜ」
「分からないのに?」
「ああ。気にするから気になるんだよ」
「なるほどな・・・。あそこの門が入り口だな。人が出入りしてる」
「よし、あそこから堂々と入ろう。入ったらデキを探すんだ」

 2人は斜面を下り、服の埃をはらって町の門に向かった。入り口には、カーキ色の服を着た門番が2人立っていた。ジクメの胃はきゅっと縮まったけれど、ドゥワンの方は平気で歩いていく。右の門番が何か言ってきたが、ドゥワンはただ「ああ、いい天気だ」と答えて過ぎた。次はジクメだ。左の門番が声をかけてきたので、思い切って「そうさ!もちろん!」と答えてやった。何も起こらなかった。本当に難なく、2人は町に入ることができた。

 町の中央にひときわ大きな灰色の建物がある。デキがとらわれているとしたらそのあたりだろうと2人は見当をつけた。建物は4棟あって、殺風景な広場を囲んでおり、その広場の真ん中のベンチに、黒い髪をふたつのお下げにした女の子が座っていた。カーキ色の服の町の人の中で、チベット服の少女はとても目を引いた。「デキ?」
「そうよ。誰? 私に用?」
「君の父さんに言われて君を助けにきたのさ」
「私を? どうして? 私、そんなに困ってるのかしら」
「だって、君の父さんは君が赤い龍にさらわれたって言ったぜ」
「赤い龍? ああ、この町のことね。私、お乳をしぼって牛を追うだけの毎日が嫌になってここへ来たの」
「なんだって。君が自分でここへ来たってこと?」
「そうよ、退屈だったんだもの。ここはほら、きらきらしていて、私、山から眺めてあこがれていたの」
 ジクメとドゥワンは顔を見合わせた。「なんてこった」「デキ、ここはそんなにいいところかい?」
「・・・そうでもなかったわ。家はみんな同じつくりだし、道もみんな同じふう。どこがどこだかさっぱり分からないから、私、ずっとここに座っているしかないの。だって迷っちゃうんですもの。それにここにいる人たちも、みんな同じ服を着て同じ顔つきだから、区別がつかないの。牛の方がまだ分かるわ」
「デキ、センゲ川の谷に帰らない?」
「だって、帰ったらまた前と同じ暮らしでしょ。毎日お乳をしぼって牛を追うのよ。つまらないわ・・・」
「じゃあここにずっといるの? ここに座って?」
「そのうちに慣れるんじゃないかしら。そのうちに、私もここの人の言葉が分かるようになって、少しはましになるかもしれないわ。だってここは埃っぽくないし、獣の匂いはしないし・・・あら、でもあなたは山の人なのにいい匂いがするわね」とジクメの方を見た。
「ぼ、僕? そう?」横のドゥワンが必死で笑いをこらえている。
「ええ。甘くてとってもいい匂いよ」
「デキ、僕らといっしょに帰ろう」
「父さんは怒らないかしら?」
「僕から言ってあげるよ。君が困っていたんだって。君は新しいものに惹かれて古い生活を捨てた。でもそれはきらきらしているけど、ほんものじゃないってことに気がついた。それでいいんじゃないかい?」
 デキはジクメをまっすぐに見て言った。「あんたってやさしいのね」
「いい匂いだしね」ドゥワンが言ってこらえきれず吹き出した。

 3人は笑いながら手をつなぎ、灰色の広場を抜け、灰色の建物を出た。町の灰色の門が見えてきた。ところが、そこにはたったいま着いたばかりの灰色の馬と、カーキ色の服の男がいて、門番に何かを伝えているようだった。その男は振り向いてジクメとドゥワンを見つけ、指さして何か大声で叫んだ。男の右手がまた腰にのびた。ジクメの心は縮み上がった。「逃げろ!」

 3人は離ればなれにならないように固まって、灰色の道をどこまでも走った。すれ違う人間はみな3人を見ると声をあげ、棍棒を振り上げ追いかけてきた。追っ手の数はみるみるふくれ上がり、ついには道幅いっぱいに両側から迫ってきた。「さっきの庭へ!」ドゥワンが叫び、3人は見覚えのある横道から灰色の広場へ転がり込んだ。すぐに四方からカーキ色の人間が押し寄せ、3人はみる間に真ん中のベンチに追いつめられた。「もうだめだ」「あきらめるな」「怖い、助けてジクメ!」

 僕の名はジクメ。助けを求められたら、命を賭けても守る。「それが僕の仕事。」

 そのとき、ふところの冷たいガラス瓶が肌に当たった。洞窟で手に入れた瓶だ。とっさにジクメはベンチに上り、頭上高くにガラス瓶を掲げて叫んだ。「おおい! これが欲しいか!」カットガラスの瓶は夕日を反射してきらきら輝き、五色の光を十方にまき散らした。カーキ色の群れは歓声をあげ、手を伸ばしてこの美しい瓶をほしがった。「ほら、欲しいか!」ジクメが瓶を振ると、それに合わせて群れも揺れてうねった。その混乱に押されて瓶はジクメの手からすべり落ち、地に落ちて一瞬にして砕け散った。そのとたん、割れた瓶から霧のようなものが立ちのぼり、霧は光を受けて虹のように輝いた。あっけにとられた大勢の人間の目の前で、霧はゆっくりと広場をおおった。

  耳にて死を聞き 目にて死を見たる
  世間の人は あまさず死にいたる
  尊きチェンレシ 彼らを導きて
  極楽浄土に往生させたまえ

「ドゥワン!」澄んだ声で歌っているのはドゥワンだった。光の粒でできたような霧に目をふさがれ、ドゥワンの歌声に耳をふさがれ、カーキ色の群衆は動かなくなった。

  地獄と 餓鬼と 畜生 阿修羅たち
  天人 人間 三界有情たち
  尊きチェンレシ 彼らを導きて
  極楽浄土に往生させたまえ

 そのまま3人は歌いながら灰色の広場を出た。灰色の門を出て、谷を抜け、山を越え、黒い湖の見える北の山に帰ってきた。
「ここでお別れだ」ドゥワンは天人の木の林の中に消えていった。

 ジクメとデキは夕暮れの最後の光の中、ジクメの家のある西の山のふもとに向かった。
「ねえジクメ、私、ずっと不思議だったんだけど、どうしてあんな灰色の町のことをみんな赤い龍なんて呼ぶのかしら」
「うん・・・住んでると、だんだん灰色だってことが分からなくなるんじゃないかな。いくら表面をきらきらさせたって、ほんとうは灰色なのにね」
「怖いわね」
「ほんとうに怖いのは忘れちゃうことかもしれないな。あいつらも、きっと最初はわかってたんだよ。でもいつのまにか全部忘れちゃったんだ。僕も大事なことを忘れるところだった。君だってもう少しあそこにいたら、僕らの言葉を忘れてたかもしれないよ」
「あら、見て!」デキの指さす方を見ると、7つの峰に抱かれた黒いマンダラ湖に円い月が映っていた。

「ただいま。デキを連れてきたよ」ジクメは父に向かって言った。


2017年1月10日 脱稿

 
 
 
 
 
 
 
 
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by prem_ayako | 2017-01-10 17:16 | merchen | Comments(0)

タオの勲(いさおし)

 ある夏の夜明け、ひとりで水を汲みに出たタオは、水場のすみで眠っている人影を見て、驚いて桶を落としそうになった。それは灰色の毛織りのマントをまとった老人で、タオを認めるとしわがれた声で名を呼んだ。「タオ。」
 恐ろしさのあまり吐き気がこみあがるのをこらえて、タオは言った。
「お、お前はこの村の者じゃないな。誰だ?」
 老人が笑うと、まるで喉に穴があいているみたいに、ひゅうひゅうと音がした。
「そうとも。村人ならばこんなところでお前を待ちはせぬ。」
「誰だ? なんで俺の名前を知っている?」
 老人は、今度は笑い声をたてず、灰色の濁った目でまっすぐにタオを見た。
「わしはお前を生まれる前から知っている。お前が知らなかっただけだ。」
「死んだ父さんの知り合いか? 草原の向こうに隠者がひとり住んでいるって、母さんに聞いたことがある。」
「まあそんなものだ。」
 そう言う老人の目をふちどる、まつげも眉もすべてが灰色だとタオは思った。そして大好きだった父の知り合いならば、恐れることはないのだと、体がゆるむのを感じた。
「でも俺に何の用? 母さんなら、たぶんヤクの世話に出ているよ。」
「タオ、わしはお前に頼みごとがあって来たのじゃ。草原の先、川の向こうの岩山に、聖なるミラレパ尊者の洞窟があるのを知っておろう。お前の生まれる少し前、わしはお前の親父とふたりでその洞窟を訪れたことがあるのじゃが、そのことは聞いているかな?」
「ううん。父さんは俺が5つのときに死んでしまったけど、そんな話は聞いたことがない。」
「では教えてやろう。お前の母御はもともと体が弱くてな、お前の親父はお前と母御がお産で命を落とさぬよう、ミラレパ尊者に願をかけたのだ。」
「・・・そうだったんだ。でもその父さんは、雪解けの川に落ちて死んでしまった。」
「タオ、お前と母御の命を救ったその父が、ミラレパ尊者の洞窟に残した形見の宝物を、手にしてみたいとは思わぬか?」
「形見の宝物・・・?」
「そうじゃ。」
「それは何?」
「それは自分の目で見て確かめるがいい。とてつもなく尊いものじゃ。」
 タオはまた胸がむかむかしてきた。
「どうじゃ。お前の親父が死んで7年経つが、世の中はますます悪くなってきた。わしはのう、あの宝物を取り出す時がきたように思うんじゃ。」
「でも・・・」
「でも、何じゃ?」
「どうしておじさんはそんな大事なことを俺に頼むの? 何故おじさんが自分でそこへ行かないの?」
 老人は首をふって言った。
「さあそれよ。わしは年をとって目が見えなくなってきた。あの洞窟まではもうとても行き着けん。しかもあの洞窟はヤルンツァンポ川を臨む崖の上にある。先年の大洪水で流れがずいぶん変わったと聞く。もしあの崖が崩れれば・・・」
「父さんの宝が、流されてしまう?」
 それは厭だ、とタオは激しく思った。
「おじさん、どうすればいい? 俺はこんなに青白くて弱っちいんだ。友だちが1里行く間にも俺は半里しか歩けない。俺は、でも、父さんが俺と母さんのために捧げた宝を救いたい。父さんを救うことが、俺にはできなかったのだから・・・!」
「ほんとうにそう願うなら」老人は霞のかかった灰色の目を、ひたとタオに注いで言った。「必ず観音菩薩のご加護があるじゃろう。」

 2日後、タオは灰色の老人に言われた道を、ヤクのニンジェといっしょに南を指して歩いていた。母さんは1週間分の食料を用意してくれた。昼は、食料と少しの荷物をニンジェの背に振り分けて歩いた。夜は、ニンジェの運んだ毛布にくるまって、この大きな獣のごわごわした首の毛に顔をおし当てて眠った。
 見渡すかぎりはるかかなたまで、なだらかな丘が続いている。波打つ草の緑の海に近づいてみると、色とりどりの花がまるで燃える火の玉のように咲いている。雲が、タオの先へ先へと飛んでいく。その雲の落とす影もまた、草の上をタオの先へ先へと流れていく。聞こえるものは、ニンジェの背に乗せた荷物のふれあう音だけだ。ときおり皮袋の水を飲むために立ち止まると、足もとの花に群がる虫の羽音がわきあがってくるのだった。

 3日目、草原を越えて大きな川に出た。ヤルンツァンポ川だ。父を飲み込んだ川、ミラレパ尊者の洞窟のある崖を今まさに削りとろうとしている川。この川の上流に1カ所だけ歩いて渉れる場所があるという。
 その男は、岸の赤っぽい大きな岩にもたれて立っていた。ほとんど裸で、日に焼けた肌はつやつやと黒く光っていた。そばに頑丈そうな筏が引き上げられている。男からは魚のにおいがした。
「乗っていくか?」男は愛想よく言った。
「ありがとう。でも、上流に行けば歩いて渉れると聞いている。」
 男の白い歯がぎらりと光った。「上の浅瀬まで行くつもりかい? うんと遠回りになるぜ。ここで渡れば楽だよ。」
 タオは迷った。川幅は広く流れは速かったが、筏はしっかりしているように見えた。ところが、いつもいうことをきくニンジェが、このときは怯えてどうしても筏に乗ろうとしない。「どうした? おいで、怖くないよ。」タオは一生懸命彼女を説き伏せようとしたが、ニンジェは4本の足を力の限りふんばって一歩も動くまいとするのだった。
「そんな役立たずはおいていけよ。」船頭の男は言った。「ここは草がたっぷりある。岩につないでおけば、おとなしく待ってるだろうよ。」
 タオはニンジェの目を見た。「いや、おいてはいけないよ。友だちなんだ。」
 男は肩をすくめた。「そうかい、じゃ勝手にしな。」
 
 タオは男と別れて上流に向かった。しばらく行くと、川辺の灌木の陰に若い男がひとり座っていた。その男は長い髪を後ろにひとくくりにして、白い木綿の服を着ていた。彼はなにやら歌っていたが、タオに気がつくと歌うのをやめて「やあ」と言った。「こんなところで人に会うとはな。しかもガキがヤクと連れだって。」
 タオはむっとした。「俺はガキじゃない。ちゃんとした名がある。」
「じゃあ聞かせてもらおう。」
「そういうお前が先に名乗れ。」
 若者はにやっとして、まあ横に座れとタオを招いた。「俺はレパ。巡礼だ。」
 巡礼は、山を越え谷を越え、ひたすら聖地をめぐって功徳を積んでいる。巡礼を敬うことは、すなわち仏を拝むことになる。タオはレパと名乗る巡礼に三拝して横に座った。「俺はタオといいます。このヤクはニンジェ。この先の岩山にあるというミラレパ尊者の洞窟へ行くところです。」
「それならお前も巡礼か?」
「いいえ。」タオは灰色の老人に会ってから3日の間のできごとを残らずレパに話した。黙って聞いていたレパはタオが話し終えると、よくとおる声で歌いだした。
 「ああ、めずらしきかな。
  しかるべき供えをすれば
  どんな願いも叶えられ、
  あやまった供えをすれば
  命さえも奪われる。
  恐ろしきジェツン・ミラレパの洞窟を
  確かめ行くは勇者タオ。」
 歌い終わるとレパは立ち上がり、自分の荷を腰につけた。「タオ、俺に食うものをくれ。明日はいっしょに川を渉ろう。」

 その夜は雨が降った。一行は川筋を避けて樫の林の中で寝た。翌朝のヤルンツァンポ川は水かさが増して、足をすべらせればたちまち流されてしまいそうだった。4つ足のニンジェは楽々と足場を見つけるので、タオとレパはニンジェの後について川を渡った。
「見ろ、タオ、あれが尊者の洞窟だ。」レパの指さす先、切り立った白い崖のおもてに小さな黒い入り口が見えた。「ロープはあるか?」
「はい、ニンジェに積んでいます。」
「よし、ロープを持ってこっちへまわれ。ニンジェには、悪いが崖の下で待っていてもらおう。」
 崖の下に着くと、ニンジェはおとなしく待つことに決めたようだった。
「タオ、崖に道があるのが見えるか?」
「崖に道が?」
「そうだ。昔から何百人の行者がこの崖をのぼって尊者の洞窟に詣でた。その者らのつけた手の跡、足の跡が、岩肌に金色の筋となって残っているのが見えないか?」
 タオは一心に目を凝らして岩肌を眺めた。はじめは何も見えなかった。が一瞬、雲が切れて朝の光が斜めに崖を照らしたとき、かすかに点々とくぼみが光った気がした。
「・・・あっ。」
「見えたか。」そしてレパはまた歌った。
 「ああ、めずらしきかな。
  ひとつは闇を払うまことの道
  ひとつは闇に誘うよこしまの道。
  まことを求める勇者だけ
  正しき道の跡を見る。
  恐ろしきジェツン・ミラレパの洞窟を
  確かめ行くは勇者タオ。
道は必ず見つかる。行け、タオ、上るのだ。」

 タオは、そのかすかに光る金色のしるしをたよりに崖を上った。レパがついてきているかどうか、分からなかった。はるか下で、ニンジェが体を震わせ音をたてたのを聞いたような気がした。そして、腕も肩も、もうどうしても動かせないと思ったそのとき、指先が洞窟の入り口にかかった。最後の力でタオは身体を持ち上げ、暗い穴の中に転がり込んだ。
 タオは疲れ果て、しばらく息をつくことができなかった。やがて目が慣れると、洞窟の中がぼんやり見えてきた。ミラレパ尊者の洞窟は3畳ほどの広さで、正面にあるのは尊者の像と祭壇のようだった。まず三拝だ。そう思って立ち上がったタオは、またもや息がとまりそうになった。「誰だ!?」
 今まで気づかなかった奥の暗がりに、黒い影がうずくまっていた。その影はゆらゆらと立ち上がり、白い歯を見せた。「俺だよ。」覚えのある匂いがして、あの船頭だとタオは思った。また吐き気がしてきた。
「よくここまで来たな、坊や。ほめてやろう。このあいだは、もう少しのところであの獣にじゃまをされたがな。でも、ここまでだ。とっとと帰れ!」
 タオはかすれた声で叫んだ。「い、いやだ。俺は、父さんの宝を・・・父さんの生きたあかしを、確かめに来たんだ。じゃまするな。」
 男は大口をあけて笑った。すえた魚のにおいが強くなった。「バカ、死んだ者のことなど放っておけ。今さら何をしても無駄さ。」
 タオはかっとして叫んだ「無駄じゃない!」しかし、男の言葉は思いがけずタオの心を貫いた。男から視線をはずし尊者の前の供物の山に目をやったとき、タオはそこに横長の木箱があるのに気がついた。木箱のふたには、母さんの晴れ着と同じウパカラの花の模様が彫られていた。
 次の瞬間、タオはその木箱に飛びついた。
「それにさわるな!」男が差し迫った声で叫んだ。「さわってはいかん! 元に戻すんだ! でないとひどいめにあうぞ!」
「いやだ! 俺はこれを持って帰る。」
「許さん! 戻せ!」
「これは父さんからの供物だ! お前には関係ないだろう。」
「いや、それを持ち出すとたいへんなことになる。呪われるぞ。バカ野郎! 元の場所に戻せ!」
 この男が飛びかかってきたら、タオはたちまち箱を奪われてしまうだろう。だが男は、恐ろしい顔で手を振り回して怒鳴っているが、タオに近づいてこようとはしない。何故だ?
「戻せ!」
「いやだ!」
 タオは、いきなり木箱を男に向かって突き出してみた。男は「あっ」と後ろに跳びのいた。
「そうか! お前はこれにさわれないんだな? 中身は何なんだ?」
 タオはゆっくりと箱を下に置き、男から目を離さないように気をつけながら、手探りで木のふたを開けにかかった。
「や、やめろ!」
 掛けがねがカチッと音をたて、タオは箱のふたを開けた。その瞬間、中からまばゆい五色の光が放たれ、一瞬のうちに、何年も闇に沈んでいた洞窟は、隅々まで光に洗われた。「だめだ! ああっ!」光を浴びて、男の姿はもはや人間ではなかった。ふくれた腹、飛び出た目玉、小さな口・・・餓鬼だ。「封印が解かれた・・・もう駄目だ・・・」餓鬼の体はしだいに縮んでゆき、ついに塵となって消え果てた。
 木箱はまだ仄かに光を発していた。我に返ったタオは、ミラレパ尊者に三拝してから箱の中を調べた。入っていたのは、幾重にも包まれた古い教典だった。

 それからタオは木箱をしっかりとふところに入れ、洞窟の入り口に生えている樫の木にロープをかけ、ゆっくりと崖を降りていった。下ではニンジェが、のんびりと草を食んでタオを待っていた。レパの姿はどこにもなかった。タオはニンジェの首を叩いて言った。「ただいま、ニンジェ。俺が見たのは夢だったのかな。」


 7日目に、タオとニンジェは村に帰ってきた。その後1度だけ、タオは草原の向こうに住む灰色の老人に会いに行った。老人は震える手で木箱の中を確かめた。この経典は迫害を予知したグル・リンポチェが、1200年前に土に埋めたテルマの1つだという。タオの父さんは埋蔵教典を掘り出す力を持つテルトンという血筋の者で、老人もそうだった。そしてタオも。
 タオがミラレパ尊者の洞窟から取り出した埋蔵経は、ゴンカン寺に納められた。経典を一読した僧は驚きを隠さなかった。このテルマは、悪霊を払うきわめて強い力をもっている。世に出れば衆生に大きな利益をもたらすだろう。
 巡礼のレパには2度と会うことがなかった。だが「タオのいさおし」は今もこの地で歌い継がれている。ヤルンツァンポ川はその後氾濫を繰り返し、あの洞窟に近づく者はもう誰もいない。
 


2016年4月4日 脱稿
 
 
 
 
 
 
 
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by prem_ayako | 2016-04-04 22:11 | merchen | Comments(2)

アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。


by prem_ayako