アードラーの夢

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2017年 01月 10日 ( 1 )

赤い龍の谷

 ジクメは、父と2人で黒い湖のそばに住んでいた。母はジクメを生むとすぐに亡くなったので、父はこの湖の岸でヤクの乳を飲ませてジクメを育てた。ときおり夏に遊牧民がくる以外、野生の鹿や鳥、そして飼っている羊やヤクのほかに住むものはいない。

 ある春の夜、家の外で父を呼ぶ大きな声がした。聞き覚えのある声の男が表に来ていて、何か差し迫った話があるらしかった。「お願いだ・・・」「・・・だがあの子はまだ・・・」「でも娘が・・・」しばらくくぐもった話し声が続いて、最後に父が「わかった」と言うと、男の去って行く足音がした。

 家に戻った父はしばらく火を見つめていた。その間、ジクメは毛布の下で息をひそめて待っていた。おそろしいことが起こる予感がして、押さえようとしても身体が震えた。「ジクメ」とうとう父が言った。「起きているんだろう。こっちへおいで。」ジクメは毛布から這いだして、父の前に立った。「ジクメ」ジクメの両肩に手を置いて、父はもう一度名を呼んだ。「お前の名はジクメ。『恐れを知らぬ者』だ。この名をもつ者は、同じ年まわりの者が助けを求めたら、命を賭しても助けに行かねばならない。それは知っているな?」
 ジクメは口がカラカラに渇いて返事ができなかった。
「さっき来たのは牛飼いのノマだ。娘のデキが赤い龍にさらわれたという。デキはお前と同じ戌年の生まれだそうだ。わかるね?
「お前はまだ11歳だ。父さんはつらい。だが断ったら、お前は一生意気地なしと呼ばれる。それもつらかろう」
 ジクメはかろうじてうなずいた。
「では明日、夜明け前に発つんだ。赤い龍からデキを取り返してこい」

 夜明け、ジクメは言われたとおり身支度をして戸口にいた。父はノマから預かったデキの守り紐をジクメの腰にくくりつけた。「これがお前を導いてくれるはずだ。」かみしめ続けたジクメの唇はついに切れて、血の味がした。

 ジクメの家は黒い湖の西の山すそにあった。湖は四方を山に囲まれており、なだらかな斜面には牧草が豊かに育ち、さらに一帯をセンゲ川が潤している。南の聖なる山々は険しくて、岩肌に残る雪は、そのときどきでさまざまな動物に形を変えた。対岸の東の山の向こうには都があり、さらに向こうには父と母の故郷があると聞いていた。
 夜明けの湖は不気味な黒い鏡のようだった。昼間は透明に澄んでいる水も、今はとろりとぬめって、重たくまとわりつくように見えた。たくさんの水鳥が、まだまるくなって眠っていた。岸のジクメの足跡は、砂とともにさらさら崩れてゆく。風がジクメの背中を押したが、ジクメの足はのろかった。
 前に見える北の山は、ねじくれた灌木におおわれた低い山で、今はとげを生やした巨大な動物がうずくまっているように見えた。赤い龍は、あの山の向こうの谷に住むと言われている。だが、龍の実際の姿を見た者はいないし、一匹だけなのかたくさんいるのかもわからなかった。

 センゲ川を越えると湖から離れ、北の山が近づいてきた。と、ふもとの灌木の中で人影が動いた。「誰?」腰の短剣に手をやりジクメは叫んだ。振り向いて顔を出したのは見たことのない少年だった。長くのばした髪を頭の上で無造作に束ねている。木の実を摘んでいたのか、編んだかごを腰に結わえている。
「お前こそ何だ? そうカリカリするなよ。俺はドゥワン。ぼっとしてないでこの実を植えるのを手伝ってくれ」
「ドゥワン・・・。僕はジクメ。何を植えてるの?」
「天人の成る木さ」
「て、天人の成る木?」
「そうさ。この山の木はみんなそうだよ。みんなねじくれて背が低いだろ? 育った天人が上でらっぱを吹くからどうしてもこうなるんだよ」
「・・・」
「でも天人のためには、こういう山もいくつかは必要だよね。あれ? 知らなかったの? ずいぶん世間知らずだなあ」
「父さんは教えてくれなかったもの」ジクメは若者のかごをのぞいてみた。少し大きめのドングリに似た実がたくさん入っていた。
「あまり深く植えないでね。天人の翼が開きにくくなっちゃうから」
ドゥワンの指示に従って、ジクメは午後おそくまで実を植えるのを手伝った。

「ありがとう。ところでジクメはどこへ行くの?」
「僕は・・・この山の向こう」
「向こう?」
「赤い龍にとらわれたデキという女の子を助け出さなくちゃならないんだ」
「おや。そんな仕事があるんだ。ご苦労さま」
「仕事じゃないよ。ただ、しなきゃならないんだよ」
「だから仕事なんじゃないか」
「・・・そうなのかな」
「そうさ。じゃ足を止めて悪かったね」
「いいよ・・・どうせあんまりしたくない仕事だもの」
 ドゥワンは薄い色の目でジクメを見て言った。「でもしなきゃいけないんだろ? その子のために」
「・・・そうさ。だけど僕はその子の顔も知らないし、うまくいくかどうかも分からない」
 ドゥワンは急に目をきらきらさせて言った。「いい仕事だなあ! よし、手伝ってもらったお礼に、いっしょに行ってやるよ」
「え、ほんとに?」
「ああ! どうせ山のこっち側は植えつくしちまった。俺も新しい土地を開拓しないとな。行こうぜ!」

 2人は灌木の斜面を難なく登っていった。尾根まで上ると、ジクメが見たことのない景色が広がった。背後には、ジクメの見慣れた黒い湖とまわりの山々。目の前にあるのは、いくつもの谷と、重なりあったなだらかな山々で、その中にひとつ、とても奇妙な谷間があった。もう暮れかかっているのに、その一角だけは明るく輝いて眩しいばかりだった。たくさんの星をその谷間に集めて投げ捨てたようにも見えた。
「あれ何?」
「分からない・・・前にはなかったと思うんだけど、おかしいなあ」
 その一角は何かが絶えず蠢いているように見え、それは巨大なひとつの生き物が息づいていのか、あるいは小さな生き物が大勢で這い回っているのか、ここからでは分からなかった。
「あれ・・・ひょっとして赤い龍?」
「うーん、そうかも。そうでないかも。分からないなあ。ともかく朝になるまで待ってでかけようぜ」

 その晩はねじ曲がった天人の木の下で野宿した。朝は天人のらっぱの音に起こされたと何度もドゥワンは主張したが、残念ながらジクメには聞こえなかった。

 斜面の反対側を下り、昨夜見た奇妙な谷間に向かって歩いていくと、ひとつ小さな建物が見えてきた。それはヤクの糞を固めて作ったジクメの家とも、遊牧民のテントとも全く違った、灰色の四角い小屋のようだった。その小屋の壁の真っ黒の穴のような戸口から、カーキ色の服を着た人間が出てくるのが見えた。服の襟には赤い星の飾りがついていた。その男は口元に笑みを浮かべながら、ゆっくりと2人に向かって歩いてきて、近づくとジクメの知らない言葉で何か言った。「なんだって?」ジクメはドゥワンに尋ねた。ドゥワンは黙って男を見ている。男はまだ笑いながら、もう一度何か言った。「何?」ジクメが叫ぶと男はそのままの表情で腰のホルダーに右手をのばした。よく見ると左手にずっと握っているのは太い棍棒だった。

 轟音が響いた。足下の砂がえぐれた。

「逃げろ!」ジクメとドゥワンはやみくもに走った。走って走って息がきれてもまだ走って、もう大丈夫というところまで走って、疲れ切って止まった。すでに湖は見えず、天人の林も見えない。ふたりはどこかの山に迷い込んでしまったのだ。「だからこんな仕事したくなかったんだ!」ジクメはドゥワンの胸をつかんで泣いた。

 ドゥワンは呆けたようにジクメをかかえていたが、やがて身を離して聞いた。「怖いのかい?」
「そりゃそうさ!君は怖くないのか?」
「怖かったさ。というか、びっくりした。怖くなったのは、その後だ。でももう終わった」
「終わってない。もう二度と、あんな目にあいたくない!」
「でもさっきのは終わった」
 ジクメは少し考えてみた。「そうかもしれない。どっちみち、今ここにあいつはいない。・・・これからどうしよう」
「どうするかはもう決まってる。その子を助けに行くんだろ」
「でも」
「その仕事は、あいつがいてもいなくてもできるところまでやんなきゃなんないんだろ」
「・・・そうだ。でもどうやって」
「考えるさ。大事なのは、じっとしてても何も起こらないってことだ」
 ドゥワンは立ち上がって歩き出した。
「どっちへ行けばいいかわかるの?」ジクメが聞くと、「上だ。山の上に出たらまわりが見える」

 小高い頂に上ると、たしかにまわりの様子が分かった。2人はあの奇妙な谷間を見下ろすいちばん近い山に、裏側から上ってきたらしかった。急斜面の岩肌にはいくつも穴があいていたので、2人は手近な洞穴に入りこんで谷のようすを観察した。近くで見ると龍は、あの灰色の小屋の大きいのや小さいのが無限に連なっているようだった。小屋の間をカーキ色の服を着た人間が蠢いている。それがみな襟に星をつけ、口元に笑みをうかべて、棍棒を手に歩いているのだった。ジクメはぐったりと洞穴の壁にもたれかかって呟いた。「だめだ。あいつがいっぱいいる」

「そうでもないかもよ」
 誰もいないと思っていた暗い奥からいきなり声がしたので、2人は飛び上がった。
「あら、驚かせたかしら。でも実はあんたたちの方が私の家に侵入してるのよ」
 幾才ぐらいか、ぴったりとした派手なピンク色のワンピースを着た大柄な女が立っていた。ジクメはあわてて立ち上がった。「ごめんなさい!ここは・・・?」
 女は愛想良く答えた。「あんたのもたれてた壁ね、そこは私の大切な香水置き場。だいぶコレクションを倒してくれたようね」
 気がつくと、ジクメの父が作ってくれた皮の上着に、なんともいえない濃く甘いにおいがしみついていた。「くさっ」ドゥワンが鼻をおさえて叫んだ。
「失礼ね。ミツコって高いのよ。まあいいわ。さっきから聞いてたんだけど、あんたたち、あそこへ行きたいの?」
 2人は同時に答えた。「はいっ!」
「調子いいわね。そうね、あんたたちかわいいから、いいこと教えてあげる。あの町に入るにはちょっとしたコツがいるのよ。あんたたち、何を持ってる?」
「?」
「あの町に行かなくちゃいけないことを示す大切な何かよ」女はいらいらしたふうに繰り返した。
「町・・・って言うんですか、あれ」
「そうよ。なんだ何も持ってないの?」
「あの、こういうものだったら・・・」ジクメは腰からデキの守り紐を解いて女に見せた。
「あ、これでいいわ。ありがと。じゃぁ、よく聞いてね。町へ入るのは簡単なの。自分で考えなさい」
「えーっ!そんなのありですか!」2人は同時に叫んだ。「その紐とっといてその答えはないでしょう!」
「うるさいわね。じゃ、その棚にある瓶、どれでもひとつ持ってっていいわ」
 2人は顔を見合わせた。「おい、どうする」「いらねえよ、こんなくせえもの」「だけどいらないなんて言ったら、あのおばさん怒るよ」「今だってじゅうぶん怖いぜ」
「ちょっとあんたたち何ぶつぶつ言ってんの。早く1本もって出てってちょうだい!」
 ほら怒らせた・・・と、ジクメは手元にあったガラス瓶を1本ふところに突っ込んで、あわてて外に出た。

「あっ!」足を踏み出したところに地面はなくて、体が宙に浮いた。「ジクメ!」後ろでドゥワンの叫ぶのが聞こえた。ああ、終わりだ。あの龍の町の真ん中へ、たったひとりで落ちていく・・・。
「大丈夫」耳元で声がした。「私たちが支えててあげるわ。」薄い衣をまとった小さな手がいくつも、ジクメの体を下から支えている気がした。それとも耳元を切る風の音だったのか。いや、竜だ。故郷の南の山の残雪の、白い竜がジクメを乗せて、真っ青な空をどこまでも飛んでいくようだった。

 気がつくと、ジクメはさっきの山の斜面に横たわっていた。そばにドゥワンが座ってジクメを見守っていた。「けがはないね。ものすごく強い風にあおられて、この木の上にそろりと落ちたんだ。びっくりしたよ。ジクメは運がいいな」
「いや、そうじゃない」ジクメは首を振って起きあがった。「天人が助けてくれたんだ」
「あいつら、いい仕事するなぁ」ドゥワンは心からうれしそうに言った。「・・・でもお前まだくさいぜ」

 2人は下の町に入る作戦を練った。洞窟の女は入るのは簡単だと言ったが、カーキ色の人間が何を言っているのか、ジクメたちには分からない。
「適当に答えとこうぜ」
「分からないのに?」
「ああ。気にするから気になるんだよ」
「なるほどな・・・。あそこの門が入り口だな。人が出入りしてる」
「よし、あそこから堂々と入ろう。入ったらデキを探すんだ」

 2人は斜面を下り、服の埃をはらって町の門に向かった。入り口には、カーキ色の服を着た門番が2人立っていた。ジクメの胃はきゅっと縮まったけれど、ドゥワンの方は平気で歩いていく。右の門番が何か言ってきたが、ドゥワンはただ「ああ、いい天気だ」と答えて過ぎた。次はジクメだ。左の門番が声をかけてきたので、思い切って「そうさ!もちろん!」と答えてやった。何も起こらなかった。本当に難なく、2人は町に入ることができた。

 町の中央にひときわ大きな灰色の建物がある。デキがとらわれているとしたらそのあたりだろうと2人は見当をつけた。建物は4棟あって、殺風景な広場を囲んでおり、その広場の真ん中のベンチに、黒い髪をふたつのお下げにした女の子が座っていた。カーキ色の服の町の人の中で、チベット服の少女はとても目を引いた。「デキ?」
「そうよ。誰? 私に用?」
「君の父さんに言われて君を助けにきたのさ」
「私を? どうして? 私、そんなに困ってるのかしら」
「だって、君の父さんは君が赤い龍にさらわれたって言ったぜ」
「赤い龍? ああ、この町のことね。私、お乳をしぼって牛を追うだけの毎日が嫌になってここへ来たの」
「なんだって。君が自分でここへ来たってこと?」
「そうよ、退屈だったんだもの。ここはほら、きらきらしていて、私、山から眺めてあこがれていたの」
 ジクメとドゥワンは顔を見合わせた。「なんてこった」「デキ、ここはそんなにいいところかい?」
「・・・そうでもなかったわ。家はみんな同じつくりだし、道もみんな同じふう。どこがどこだかさっぱり分からないから、私、ずっとここに座っているしかないの。だって迷っちゃうんですもの。それにここにいる人たちも、みんな同じ服を着て同じ顔つきだから、区別がつかないの。牛の方がまだ分かるわ」
「デキ、センゲ川の谷に帰らない?」
「だって、帰ったらまた前と同じ暮らしでしょ。毎日お乳をしぼって牛を追うのよ。つまらないわ・・・」
「じゃあここにずっといるの? ここに座って?」
「そのうちに慣れるんじゃないかしら。そのうちに、私もここの人の言葉が分かるようになって、少しはましになるかもしれないわ。だってここは埃っぽくないし、獣の匂いはしないし・・・あら、でもあなたは山の人なのにいい匂いがするわね」とジクメの方を見た。
「ぼ、僕? そう?」横のドゥワンが必死で笑いをこらえている。
「ええ。甘くてとってもいい匂いよ」
「デキ、僕らといっしょに帰ろう」
「父さんは怒らないかしら?」
「僕から言ってあげるよ。君が困っていたんだって。君は新しいものに惹かれて古い生活を捨てた。でもそれはきらきらしているけど、ほんものじゃないってことに気がついた。それでいいんじゃないかい?」
 デキはジクメをまっすぐに見て言った。「あんたってやさしいのね」
「いい匂いだしね」ドゥワンが言ってこらえきれず吹き出した。

 3人は笑いながら手をつなぎ、灰色の広場を抜け、灰色の建物を出た。町の灰色の門が見えてきた。ところが、そこにはたったいま着いたばかりの灰色の馬と、カーキ色の服の男がいて、門番に何かを伝えているようだった。その男は振り向いてジクメとドゥワンを見つけ、指さして何か大声で叫んだ。男の右手がまた腰にのびた。ジクメの心は縮み上がった。「逃げろ!」

 3人は離ればなれにならないように固まって、灰色の道をどこまでも走った。すれ違う人間はみな3人を見ると声をあげ、棍棒を振り上げ追いかけてきた。追っ手の数はみるみるふくれ上がり、ついには道幅いっぱいに両側から迫ってきた。「さっきの庭へ!」ドゥワンが叫び、3人は見覚えのある横道から灰色の広場へ転がり込んだ。すぐに四方からカーキ色の人間が押し寄せ、3人はみる間に真ん中のベンチに追いつめられた。「もうだめだ」「あきらめるな」「怖い、助けてジクメ!」

 僕の名はジクメ。助けを求められたら、命を賭けても守る。「それが僕の仕事。」

 そのとき、ふところの冷たいガラス瓶が肌に当たった。洞窟で手に入れた瓶だ。とっさにジクメはベンチに上り、頭上高くにガラス瓶を掲げて叫んだ。「おおい! これが欲しいか!」カットガラスの瓶は夕日を反射してきらきら輝き、五色の光を十方にまき散らした。カーキ色の群れは歓声をあげ、手を伸ばしてこの美しい瓶をほしがった。「ほら、欲しいか!」ジクメが瓶を振ると、それに合わせて群れも揺れてうねった。その混乱に押されて瓶はジクメの手からすべり落ち、地に落ちて一瞬にして砕け散った。そのとたん、割れた瓶から霧のようなものが立ちのぼり、霧は光を受けて虹のように輝いた。あっけにとられた大勢の人間の目の前で、霧はゆっくりと広場をおおった。

  耳にて死を聞き 目にて死を見たる
  世間の人は あまさず死にいたる
  尊きチェンレシ 彼らを導きて
  極楽浄土に往生させたまえ

「ドゥワン!」澄んだ声で歌っているのはドゥワンだった。光の粒でできたような霧に目をふさがれ、ドゥワンの歌声に耳をふさがれ、カーキ色の群衆は動かなくなった。

  地獄と 餓鬼と 畜生 阿修羅たち
  天人 人間 三界有情たち
  尊きチェンレシ 彼らを導きて
  極楽浄土に往生させたまえ

 そのまま3人は歌いながら灰色の広場を出た。灰色の門を出て、谷を抜け、山を越え、黒い湖の見える北の山に帰ってきた。
「ここでお別れだ」ドゥワンは天人の木の林の中に消えていった。

 ジクメとデキは夕暮れの最後の光の中、ジクメの家のある西の山のふもとに向かった。
「ねえジクメ、私、ずっと不思議だったんだけど、どうしてあんな灰色の町のことをみんな赤い龍なんて呼ぶのかしら」
「うん・・・住んでると、だんだん灰色だってことが分からなくなるんじゃないかな。いくら表面をきらきらさせたって、ほんとうは灰色なのにね」
「怖いわね」
「ほんとうに怖いのは忘れちゃうことかもしれないな。あいつらも、きっと最初はわかってたんだよ。でもいつのまにか全部忘れちゃったんだ。僕も大事なことを忘れるところだった。君だってもう少しあそこにいたら、僕らの言葉を忘れてたかもしれないよ」
「あら、見て!」デキの指さす方を見ると、7つの峰に抱かれた黒いマンダラ湖に円い月が映っていた。

「ただいま。デキを連れてきたよ」ジクメは父に向かって言った。


2017年1月10日 脱稿

 
 
 
 
 
 
 
 
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by prem_ayako | 2017-01-10 17:16 | merchen | Comments(0)

アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。


by prem_ayako