アードラーの夢

ayakoadler.exblog.jp

アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。

みとり

b0253075_21184308.jpg
ちょうど2週間前、父が亡くなりました。

6月9日はチベット暦4月(サカダワ=聖なる月)の満月で
父が息を引きとったのは翌10日の昼過ぎ。
ほぼ干潮の時刻でした。

早朝、兄から連絡があり
すぐに仕度して神戸に向かいました。
(大きなJ先生は金沢に出張中)
6時ごろの電車に乗って
病院に着いたのが8時前。

そのとき、父は酸素マスクを顔に当てていましたが
血圧も脈もしっかりして、少しもちなおしているようでした。
兄はすでに勤務先の病院に出勤し、母と義姉がついていました。

呼吸は荒いものの落ち着いていたので、
母も義姉も朝ご飯を食べにいったん帰っていきました。
それで9時半頃からは、私ひとりで付き添うことになりました。

看護師さんたちの出入りの隙をみて
私は父の手を握りながら
小さな声で
千手観音の陀羅尼(なも・らとなとらや~♪)や
極楽誓願偈(えまほ~♪)や
ドルズィン・リンポチェメロディのおんまにぺめふんふりー♪を歌いました。

父はずいぶん耳が遠くなっていたのですが
今から思うとこの時
意識はもう、半分外に出ていて、いつもよりよく聞こえていたのかもしれません。。。
たしかに聴いてくれていたように思います。


主治医の先生は学会でお休みだったので、院長先生が診察に来られました。
刺繍つきの黒の網ストッキングに黒のピンヒール。
目の隈取りばっちりのお化粧の
なかなかにブッ飛んだ、40代半ばの女医さんです。

父の入院しているMリハビリテーション病院は新しい病院で、
古くからのM総合病院がすぐ隣りにあり
院長先生は、両方の責任者を兼ねています。

兄は、かねて主治医から、
リハビリテーション病院では最期まで看られません、
いざとなったらM病院に移ってください、と言われていたそうですが
当の院長にそういうニュアンスはなくて、
「もうこのままここでというご希望だそうですが、よろしいですか?
 あちらの病院に移れば、医学的にはいろいろ出来ることもありますけどね」
と確認してこられました。

私 「ええ、あまりもう濃厚なことは望んでいないので・・・」
院長「お父さまはお医者さんでいらしたそうですね」
私 「はい。父は、人工呼吸と胃瘻だけはしてくれるなと言ってまして」
院長「そうですね。治るものならしてもいいんですけど、そうじゃないですからね。
   もう、しんどいことはしない方がいいですね」

そして、鼻からの経管栄養チューブも抜きましょう、と言ってくださいました。
「もう当分の間、栄養を入れることもないですから。必要になったら、またすぐ入れることができますし」
私 「ああ!そうしてあげてください!日赤で入れたときも迷ったあげくだったんです」
院長「少しでも気持ち悪いものは取ってしまう方がいいです」
血液検査もしなくてよい、と看護師さんに指示されました。「検査は昨日もしたんでしょ?」
看護師さん「いえ、痰の培養だけです」
院長「いいわ。痛いことはやめましょう」

人によっては、このものの言い方ややり方に抵抗があるかもしれません。
でも私は、多くを言わなくてもこちらの意図を理解していただけたのが
ほんとうにありがたかったです。
(後で兄に聞くと、この院長先生は画家でもあるそうで、何枚もの大作が院内に飾ってありました)

おかげで父の体内に入っているのは最小限の管だけ・・・
とてもゆっくりと落ちる抗生剤の点滴と、導尿のチューブだけになりました。
よかった。。。
もうここまできて、無理して命を延ばすことはありません。
少しでも楽に、自然な形で逝ってもらいたいと思いました。


11時半頃でしょうか
ついウトウトとしていて、ハッと目がさめた瞬間、
父の呼吸が止まっているような気がしました。
ぎょっとして手を握って呼びかけたら
少しして、また息を吸い込んだのです。

気のせいだったのか?
ひょっとしたらこのまま逝くところだったのか。。。?

それから見回りに来られた看護師長さんが父を触って
「少し汗ばんでいますね」とエアコンを入れたり
酸素の濃度を上げたりし始めるのを見て
これは近いのかもしれないと思い・・・

午後からのチベット語レッスンをキャンセルする連絡を入れました。
さらに翌日の「中国地方会」にも参加申し込みをしていたのですけど
「無理かもしれません」と、お世話役の方に連絡しました。

その頃にはもう父は、全身で必死になって息をしている様子で、
両目とも、ずっと開いたままになっていました。

午後1時前、脈をとりにきた看護師さんが
固い表情で別の看護師さんを呼んで
その方は「このままいくと心臓の方も止まるかもしれません」
さらに、「呼んだ方がよい方がおられれば」と言われたので
母と兄に連絡しました。
これが1時ちょうど。

次の息はあるのだろうかと、こちらも息を詰めて父をみつめ
長い時間が経ったような気がします。

父はとても善い人なので、善趣に生まれ変わるのは必定です。
父の肩に手を置いて
「(道行きは)大丈夫だからね」と伝えました。

看護師さんが私の背中をさすりながら
「いつも呼ぶとニコニコお返事してくださる方で・・・」と言われました。
そうです。
いつもいつも父はいい人で
どこに居ても尊敬され、愛されていました。

私が父の額をなぜながら「そうやね、そうやね。(今まで)ありがとうね」と言うと、
それまで開きっぱなしだった父の目が閉じました。
たまっていた涙が少し流れ出て
同時に父は最後の息をしました。

私がありがとうを言うのを
待っていてくれたかのようでした。

走ってきた看護師さんに「今モニターで、心臓が止まりました」と言われ、
院長も来られて「ご愁傷さまです」とおっしゃり、
ああ、こういう場面なんだとぼんやり考えながら
「今朝のうちに管を抜いていただいたおかげで、あまり苦しまずに逝けました。
 ほんとうにありがとうございました」とお礼を言いました。

兄に「いま、父が亡くなりました」とメールしたのが1時17分。
急変してからほんの15分ほどと
あっけなかったです。

自分の施設に帰っていた母は知らせを聞いて軽くパニックになり、
車で送ってもらって、2時すぎに到着しました。
「なんであのとき帰ってしまったんだろう!」とずっと悔やんでおります。

でもね・・・
おそらく父は、母に休んでもらいたくて
いったん、もちなおしたのだと思います。
父は母のことを大好きでしたから。

それに、院長との話し合いの場に母がもし居たとしたら
話がもう少し、ややこしくなっていたかもしれません。

父は私ひとりの時を選んで私に判断を任せ、
さらにいつもの主治医でなくて院長を選び
死ぬ時を自分で決めたのだろうなと
これはもう、ほとんど確信しています。

亡くなったのは悲しいですし、
脳梗塞を起こしてからの2ヶ月は寝たきりで可哀相でしたが
最期は、この状況の中で一番よい時を選んで逝ったと思います。

人は主体的に生き
主体的に死ぬことが
本当にできるのだと思います。


冒頭の写真は2013年10月
神戸のホテルオークラで卒寿のお祝いをしたときに撮ったもの。
父も気に入っていたこの写真を、遺影に使いました。

 
 
 

 
 
 

[PR]
by prem_ayako | 2017-06-23 21:37 | family | Comments(0)

アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。


by prem_ayako