アードラーの夢

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アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。

Meditation

少し前になりますが、6月末から7月はじめにかけて
シンガポールでまたもや、アミデワ・リトリートに参加してきました。
もう3度目です。

過去のリトリートを思い返せば
1度目は、何も分からずただ夢中で「おんあみでわふりー」を唱えていて
(それはそれで、ものすごいシャマタだったと思うのですが)
瞑想で観音菩薩さまに変身することとか
目の前に阿弥陀さまをイメージすることとかは、
ほとんど出来ていませんでした Orz

昨年、2度目は、ただただ疲れておりまして
お唱えしながら眠っていました Orz

でも今回は、全く眠くならなかったのです。
意識が逸れそうになるたび
ぴゅんっと、Chenrezig(観音菩薩)のイメージに戻ることができました。

今回は、野田先生渾身の韻文和訳テキストがあったので
細かいところまでよく理解できたのです。
瞑想のどこの部分で、自分が観音菩薩さまに変身するか、とかね。

今まで、灌頂を受けていても、穢れ多きこの身が観音さまになるなんて
そんなこととても無理!
観音さまもきっとお許しにはならない・・・と思い込んでおりました。
視覚型なんでイメージはすぐにできるんだけど、
本心から観音さまになりきることはできていませんでした。

でも今回、テキストの

  ああ|輪廻と涅槃の万法一切空|これを知らずに輪廻に迷うなり|

という和訳を読んだとき、
・・・ああそうか。
輪廻と涅槃の区別も実はないんだ。
すべてが空なんだ・・・
となんとなく納得し、続けて

  空と光明慈悲とが結合し|自心が白い Hri と顕現し|変じてわが身は観世音菩薩|

とはっきり書いてあるのを読んで
これはそうするべきなのだと、思いました。

今までだってテキストのこの部分、
チベット語と英語で何度も読んでいたのですが・・・
信じられなかったと言いますか・・・
日本語で言われてやっと説得されました、という感じです(^^;)

で、確信をもって、
自信を持って、変わってみました。
こういうのを「本尊慢」というのかな。。。


そうして私は白き身体、四手の観音菩薩になり、
左右対称に美しく座して、
合掌しただ一心にマントラを唱えているのでした。

もう1回お唱えすると、それによってもう1人衆生が救われるのだと信じ、
ひたすら多くのマントラを唱えていると
目の前に、いつしか、三次元立体の
輝く大きな阿弥陀さまが顕れました。
透明なルビー色の丸みが美しいです。

3日目ぐらいまで、このような体験が繰り返し起こりました。
意識はぎんぎんに冴え、とてもよい状態ですが
瞑想に深く入れば入るほど、人と話をするのが苦しくなりました。
b0253075_1045026.jpgとても感じやすくなっていて、
ガルチェン・リンポチェとご一緒に極楽誓願の唄を歌えたときは
感動して泣いてしまうほどでした。。。

3日目の夜、全員が灯りをもって
大きなセッションルームを供養のためにコルラ(巡回)した時には、
おかけいが来て「わぁきれ~い♪」と喜んでくれた気がしました。


そんなふうに機が熟していって
4日目の午前、最後のアミデワ・セッションの時、
はじめて、あることが起こりました。

どう説明したらいいのかよく分からないのですが

マントラを唱え続ける中で、
意識が、深く深く入っていったのだと思います。
たぶん自分の心の奥に。

入っていって、気がつくと、
そこにガルチェン・リンポチェがおられました。
リンポチェのお心がありました。


我執にまみれているとき、心は固い氷のようになっている。
本当は、すべての衆生のこころは海の水のようにひとつなのに
それを知らずに、私たちは孤独に波に揺られ漂っている。
我を捨て去ったとき、固い氷は溶けて海の水と同じになり、
私たちはひとつになる。

何度も何度もリンポチェからお聞きしたお話です。

ようやくこの意味を知りました。

観音菩薩のご加護で、我執から一瞬離れることができたのでしょう。
リンポチェと同じ大海にとけいっておりました。

Whenever you meditate, our mind is one.

ああ、リンポチェ、こういうことだったのですね。
嗚咽が出そうで
お唱えを続けることができませんでした。


ほんの少しの時間でした。

でも分かりました。知りました。
我執を捨てることさえできれば
本当に、2つの別々の輪っかが開いて、
ひとつの大きな輪っかになるのだということを。



ふりかえって考えるに、
マントラを何千回唱えるという瞑想そのものは、
昔アスミでよくやったダイナミック瞑想とほぼ同じ原理のもので、
マインドを停止させ、ある種の恍惚感をもたらします。
このとき、たぶん自分という意識も消えるでしょう。
これがひとつ。

ですがここに、慈悲の要素を入れるからこそ・・・!
つまり観音菩薩になって心から衆生済度を願うからこそ、
はじめて我執が、自他の区別が、消えるのです。

瞑想と慈悲。
この両方が必要です。


垣間見た世界は、
いろんな条件が整わないと到達できないけれど
今生のうちに、また必ず訪れたい。

そしてもし機会があったら、
心からの感謝をリンポチェに申し上げたいです。
 

 
 
 
 
 
 
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Commented by jalsha at 2016-07-23 12:52 x
つたない和訳がお役に立って嬉しいです。
チベット語はもちろん英語でも
観想は難しいですものね。

しかしローツァワ(翻訳官)は疲れはてて眠くてしょうがなくて
何度も何度もコルラに行ってマンダラのまわりを回っていました。
観想も全然ダメで
ただ口が「おんあみでわふりー」と言っているだけで
まったくなにも起こりませんでした。
まあこういう年もありますわね。
Commented by prem_ayako at 2016-07-24 13:41
jalshaさま

先生の菩薩行のおかげですm(_ _)m
その昔、先生がクンダリーニ瞑想の後で体験されたことを伺ったことがあります。ラジニーシプーラムの川のほとりで、というお話でした。。。ヒエロファニー?法身顕現?自分には今生では起こらないのかと半ばあきらめていましたが、こういうことだったのか!と今は思います。
きっと、人によってさまざまな形で起こるのですね。私にとっては、ガルチェン・リンポチェのよくなさる譬え話の文脈で起こりました。さまざまなご縁をいただけたことが、とてもありがたいです。

疲労困憊しておられたのですね。10人の弟妹のお世話もしてくださったのですから・・・申しわけありませんでしたっ!
by prem_ayako | 2016-07-23 10:20 | tibet | Comments(2)

アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。


by prem_ayako