アードラーの夢

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岩手の文人たち(1)

盛岡でのパセージ・プラス、
前半はゆっくりと隔日に進んだので
オフ日や午後の空き時間を利用して

宮澤賢治ゆかりの光原社
多田等観の住んだ円万寺観音堂
高村光太郎の住んだ高村山荘と、高村光太郎記念館
を訪れることができました。

この3人、意外なことに同時代人で
それぞれに縁があって実際に会っているのですよ。
なんだか不思議で、
点が線につながったような感じでおもしろいので
少し書いてみたいと思います。

まずは高村光太郎のことから・・・


高村光太郎。
「智恵子抄」の詩人、彫刻家、
戦時中に戦意を鼓舞する詩を書いたと批判され、戦後7年間蟄居。
その後、十和田湖畔に「乙女の像」を完成させ、73歳で亡くなりました。

この、戦後7年間蟄居していたのが、
花巻市郊外の、大田村山口に今も残る「高村山荘」なのです。

訪れてみると山荘とは名ばかり、
それはビックリするぐらい本当に粗末な掘っ立て小屋でした。

もと炭焼き小屋だったのを払い下げたのだそうで、
天井も張っていないし、囲炉裏の小さな部屋と、台所になる土間があるだけ。
お客が来れば、主の座る場所などないぐらい・・・
冬は障子紙のすき間から風が吹き込み、
寝てるあいだに枕元に雪が積もったといいます。
高村光太郎はここに、62歳から69歳まで一人で暮らしました。


なんで東京生まれ東京育ちの光太郎が花巻にまで来たのかというと、
光太郎は宮沢賢治と、少々のご縁があったからなのです。

賢治の遺作集の装幀を手がけたり
賢治の詩碑の揮毫を書いたり
そんな中で光太郎は、花巻の宮沢清六氏(賢治の弟さん)と知り合いになります。

そして東京大空襲でアトリエが焼失してしまったとき
光太郎は誘われて花巻に疎開してくるのです。

ところが、賢治の実家の宮沢家もまた、空襲で焼かれ、
今度は土地の人々の好意で、郊外の大田村山口に暮らすことになりました。

きびしい人生ですねえ・・・
最愛の妻智恵子もすでになく、子もなく、
家を失い財産をなくし、
ただ親切な人々に頼るしかない、漂泊の詩人。

近くの「高村光太郎記念館」に入って、たくさんの資料を見ました。
そして『高村光太郎 山居七年』(花巻高村光太郎記念会)という本を見つけたので、
買って帰って読みました。
光太郎がどんな思いで、この山の中のあばら屋に暮らしたのか
知ってみたいと思ったからです。

とてもよい本でした。
なんていうか・・・何もかもなくしても
人ってきれいに生きていけるんだな。というか。

これは、光太郎を何かと助けた佐藤隆房さんという花巻のお医者さんが
光太郎の手紙や、自分の記憶や、いろんな人の思い出を、たんねんに時系列にまとめたもので、
ちょっと、以前に翻訳した『アドラーの思い出』みたいな構成をとっています。
この時代の市井の人々の、生の声が聞こえてくるような本でした。

b0253075_041325.jpg光太郎は小屋の前に小さな畑を作り、
季節のよいときは裏山を散策しました。
ときに智恵子の名を呼ぶ夜もあったといいます。

村の人たちは光太郎のことを、ただ「偉い先生」としか知らなかったのですが、
光太郎は腰を低くして自分の方から村人に声をかけ
小学校の子どもたちと交わったりして、次第にとけこんでいきます。

雪ぐつを編んでもらったり
野菜の育て方を教わったりしたお礼にと、
光太郎はいちいち丁寧に、ありあわせの紙に書をしたため
頼まれたら詩を詠み、法事や式典で挨拶をしました。

本当に村人に慕われ、大事にしてもらっていたようです。
十和田湖畔の「乙女の像」を制作する話がきたとき、
東北では冬に粘土が寒さから固まってしまうため、やむなく東京に移って、
けっきょくそのまま東京のアトリエで亡くなりました。

b0253075_0455643.jpg地元の人たちは、光太郎を偲んで
今にも崩れそうな小屋を覆う形で蓋屋を建て、
「高村山荘」と名付けたのです。

   つづく・・・
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by prem_ayako | 2015-09-01 01:24 | others | Comments(0)

アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。


by prem_ayako