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アードラーの夢

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アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。

中論のお勉強

私が神戸に引っ越す際に、
旧アドラーギルドにあった大きな本棚と
大きなJ先生ご所蔵の大量の仏教書とを
お預かりすることになりました。

手元にいつも置いておく必要はないけれど
何かのときの参考文献として必要かもしれない本、
あるいは処分してしまうには惜しい本、
もう売られていない稀少本、などだそうです。

むつかしそう~な分厚い本ばかりで、
まるで図書館の「哲学」「宗教」の棚を
うちの事務室に持ってきたかのようです。

例をあげれば
『講座・大乗仏教』
『國譯大藏経』
『インド仏教』
『ニーチェ全集』
『仏教教理研究』
などなど・・・

眺めるばかりで手がでませんが、
宝に囲まれているような幸福感は、あります。
(うちの本棚は宝の蔵)って感じ。
・・・わりと、持ち腐れでございますが。

でもね、
ダライ・ラマ法王もちゃんとお勉強しなさい、とおっしゃってたことだし
せっかくだから手始めに、『中論』を読んでみることにしました。

なぜ『中論』かっていうと
たぶん仏教論理学における基本テキストで
「空」について理解しようとするなら、
これを読んでないとあかんみたいだからです・・・(アバウト)

『中論』は2~3世紀に龍樹菩薩(ナーガルジュナ)によって書かれました。
龍樹さんはもちろんインドの人なので、
原題は Mulamadhyamakakarika(ムーラマディヤマカ・カーリカー)といいます。
早い時期、これに青目(ピンガラ)さんというインド人が注釈をつけて
5世紀にまたそれを、漢の鳩摩羅什(くまらじゅう)さんが漢訳し、
「青目釈・鳩摩羅什訳・中論」が日本に伝わりました。
以来、日本では一般に『中論』と呼ばれます。
チベット仏教徒、特にゲルク派必読の書です(たぶん)。

ウィキによると
「本文は論書というよりは、その摘要を非常に簡潔にまとめた27章の偈頌からなる詩文形式であり、注釈なしでは容易に理解できない」そうで、
青目釈(しょうもくしゃく)以外にもさまざまな注釈が書かれてきました。

たとえば『入中論』はチャンドラキルティー(6~7世紀)による『中論』の解説で
これもまた難解なことで超有名です。
中観派の一般教養みたいけど
あ~んなに分厚い本、私には読み通せるとは思えません(絶対寝る)

でも、『中論』そのものなら読んでみたいなと思いました。
愚考するに、賢い人の注釈がつけばつくほど
よけいに難しくなるのではないかしら。
理解できなくても
龍樹さんの生のお声を聞いてみたいなと思うのでした。

そこでJ先生の本棚から貸していただいたのが
三枝充悳(さいぐさみつよし)という仏教学者の書かれた
『中論』上中下3冊セット(第三文明社 レグルス文庫159)。
これなら持ち運んで電車の中で読めます(^^)

中論のお勉強_b0253075_13463557.jpg右ページには青目釈の漢文書き下し文。
左ページには龍樹菩薩のテキストを、
ご丁寧なことに、鳩摩羅什訳漢文・サンスクリット語原文・日本語訳
という順で3つ並べて載せてあります。

ふにゃふにゃ。
いやこれがね
わりと、オタクに面白いんですよ。

たとえば第2章の第1節。
漢文書き下し文:
巳去は去有ること無し 未去も亦た去無し
巳去と未去とを離れて 去時も亦た去無し

漢文:
巳去無有去 未去亦無去
離巳去未去 去時亦無去

日本文:
まず第一に、すでに去った[もの]は去らない。[つぎに]、まだ去らない[もの]も去らない。すでに去った[もの]とまだ去らない[もの]とを離れて、現に去りつつある[もの]は去らない。

わっけわからん!(爆)
けどおもしろい
と私は思うのですが、みなさまはいかがでせうか?

わけわからんままに、さらに宝の山の中から
今度は全テキストの英訳本を見つけました。
Nagarjuna: A Translation of his Mulamadhyamakakarika with an Introductory Essay (Tokyo, The Hokuseido Press, 1970)
これも稀少本じゃないでしょうか。

上の偈を英語訳と照らしてみると・・・
Indeed, that which has transpired does not come to pass nor does that which has not transpired. Separated from these (gatagata), the present passing away cannot be known.

やっぱりわけわからないけど
英語では「去る」を、transpire と pass away とに使い分けてるのね、とか
こっちの方が時制がはっきりするわね、とか
最後は cannot pass away でなく cannot be known になるんだぁとか
妙なところに感動するのでした。


つらつら読み進むに、
これって要するに論理の組み立て方の問題で
「この場合はない」「その場合もない」「この場合とその場合でない場合もない」
と何でもかんでもどんどん否定していって
故に最後は sunyata 「空」なのじゃ~って結論になるみたいなのであります。
(めっちゃアバウト)

ああ、これが
帰謬論証法とかいうやつなんだなと
どこかで聞いた言葉を思い出したのでした。
こーいう理屈でチベットのお坊さま方は
お寺の中庭で手を叩いてディベートしていらっしゃるのね。

いくら読んだって
私にはこの論法は身につきませんし(無理っ)
しかも、どうもなんだか屁理屈にきこえなくもないのですが
きっと、大事なことなんでしょうね~

もう17章まで読んだので、半分ぐらいまできました。
最後まで読んだら何かもうちょい分かるかもしれませんので
期待して
もうしばらく、格闘してみます(^^;)
by prem_ayako | 2014-05-24 14:04 | tibet

アードラー先生は夢を見なかったそうです。しかしてアードラーの夢とは兎の角、虚空の華、ガンダルヴァの城、空、幻・・・。


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